【漢方処方解説】補中益気湯(ほちゅうえっきとう)・前編

2020年11月06日

漢方坂本コラム

補中益気湯(ほちゅうえっきとう)・前編

<目次>

■有名処方・補中益気湯の現実
■補中益気湯の物語:当時の医療と壬辰の変
■名医と補中益気湯:その立方の本旨

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■有名処方・補中益気湯の現実

漢方薬の中でも一二を争う有名処方である補中益気湯(ほちゅうえっきとう)。特に「疲れ」や「倦怠感」に対して用いられることの多い処方です。

確かに疲労に対して効果を発揮する処方ではありますが、実はあまり効果が感じられないという声を聞くことが多々あります。例えば老衰や悪性腫瘍などの疾病による終末期医療。この段階でQOL(生活の質)を高めるために本方が使われることがあります。しかし効果が出ているとは言い難いケースが確かに多いのです。

補中益気湯が持つ「体力を回復する・免疫力を高める」といった薬能が強く求められるケースであるはずなのに、なぜかその通りの効果が発揮されません。時に「気を持ち上げる」という作用を期待して、立ちくらみや起立性調節障害、脱肛や子宮脱などに使われことがありますが、やはりそこにも限界があります。実際に本方を服用された方の中にも、充分な効果が感じられなかったという印象を持たれている方も多いと思います。

何でもかんでも疲労していれば補中益気湯が効くというわけではなさそうです。しかし、それはいったいなぜでしょうか。あまり効かない薬だからというだけで片付けてしまっては、安易に過ぎると思うのです。もしかしたら、補中益気湯の本質的な使い方を誤っている可能性だってあるかも知れません。

体力の無い方に、虚弱な体質の方に、補中益気湯を使ってもなぜ十分な効果が発揮されないのか。この理由を知るためには、実は「歴史」を紐解く必要があります

ある漢方処方を深く知ろうとする時、その方法には様々なやり方があります。生薬の構成から薬能を紐解く、諸先生方の治験例から使い方を紐解く、こういったやり方はとても大切な方法ではありますが、多くの場合それだけでは不十分です。最も多くの、そして的確な情報を得られる方法が「歴史」を紐解くことです。今回はそのやり方を示す一例として、補中益気湯を解説してみたいと思います。

ポイントは「補中益気湯はどのようにして作られたのか」です。本方は漢方処方の中では珍しく、はっきりと創立の意図が明記されている処方でもあります。名方・補中益気湯の物語。約800年前にさかのぼり、本方創立の意図を見ていきましょう。

■補中益気湯の物語:当時の医療と壬辰の変

中国。時は金元時代。

大陸の北方を支配していた金朝は、さらに北方から忍び寄る蒙古(元)の脅威に晒されていました。

そして金は、ついに蒙古の侵入で本拠たる満州を失ってしまいます。そして1214年、金は都を北京から開封に遷都させました。

しかし開封も安住の地とはならず、1232年に蒙古軍が再び襲来します。そして開封は蒙古軍によって包囲されてしまいました。この事件を「壬辰の変」といいます。

さらに金軍の中で恐ろしい事態が発生します。城内で疫病が大流行してしまったのです。『金史』哀宗上本紀には、この時約50日間で死者90余万人に到したと記されています。蒙古軍が目の前に迫る中、金朝は絶対絶命の危機を迎えていました。

50日間で90万人余りが死に至るという恐ろしい事態。ただしこの大惨事は、疫病の毒性が強力だったからという理由だけで片付けられるものではありませんでした。

疫病の毒性よりもむしろ、当時行われていた治療方法に問題があったのです。この時代、感染症に対しては強力な発汗剤や下剤をもって対応するということが行われていました。

金元時代は東洋医学史においてもまれに見る百科騒乱の時代です。数々の名医が各々の思想や治療法を声高々に打ち立てた時代でもありました。

当時の医術は「劉完素(りゅうかんそ)」やその学説を発展させた「張子和(ちょうしわ)」が提唱した寒涼・攻下という手法が主流でした。すなわち病の根源を火・熱と見立て、それを強引に冷ましたり下したりといった治療が盛んに行われていたのです。

この治療方法のすべてが間違いではありません。しかしおそらくこの時起こった「戦時に伴う疫病」という状況下においては必ずしも適切な手法ではありませんでした。これらの治療を受けた兵たちは、体力をさらに失い死期を早めました。その結果として起こったのが、2ヶ月に満たない期間での大量死という惨劇だったのです。

この時、開封に一人の医師がいました。名は「李東垣(りとうえん)」。この物語の主人公であると同時に、天才として後世に名を残す名医です。

話が長くなって申し訳ないのですが、彼のことを少しだけ紹介しておきます。彼はとにかく真面目な男でした。その真面目さはおそらく神経質と言って良いほど。非常に細やかな気質をもった、几帳面な男だったそうです。

先に紹介した劉完素や張子和という人たちは、どちらかと言えば酒肉を好む豪胆・闊達な人柄でした。しかし李東垣はその逆、遊処を嫌い、女性をあてがわれればあからさまに嫌悪するという性格。妓女に触られればその服を燃やし、妓女が無理に飲ませた酒は大吐したという逸話が残っています。

そして彼の師は「張元素(ちょうげんそ)」という人物でした。この人は先の劉完素に対し、本人の目の前で真っ向から医術の否を指摘した人物です。つまりその師においても人柄においても、李東垣は今までの医術にイノベーションを起こす素地を強く持った人物でした。そしてそのイノベーションが広く流布するきっかけとなった背景こそが、この蒙古軍による開封府包囲という史実だったのです。

李東垣は蒙古軍に包囲された開封の中で、ある書物の草稿を作り上げていました。名著『内外傷弁惑論(ないがいしょうべんわくろん)』。この本はそれから先何百年後の現在においてもなお、傑作として伝承され続けることになります。

そして李東垣は、この本の中である処方を立案しました。「身体が消耗することで止まない火が起こる」。「陰火(いんか)」を治す方剤として提示された処方。それが「補中益気湯」です。

つまり補中益気湯は、歴史的に見ると蒙古軍襲来と金軍内の疫病流行という状況下において創立された処方です。すなわち、本方は過酷な労働を強いられていた兵士たにち起こった感染症を治療する薬方として使用されていたと考えることができます。

発熱に対してそれを冷まし・下すという攻めの治療を行うことが常識とされている当時、李東垣は逆に体力を補うことで止む発熱があるということを提示して見せたのです。

■名医と補中益気湯:その立方の本旨

では、李東垣はこの疫病による発熱をどう捉えていたのでしょうか?そして補中益気湯を以てどのようにして治すと考えていたのでしょうか?

蒙古軍から常に攻撃を受け続け、さらに兵糧(食料)が尽きんとする過酷な状況下に置かれた兵士たち。彼らは強い消耗を受けると同時に、心身に異常な興奮状態を継続させていきます

その興奮はまさに体という形(陰)を焼き尽くす火。その火は体を枯らす賊(ぞく)であると同時に、その一方で生命を鼓舞せんとする力そのものでもあります。つまり火は除くのものではなくあくまで気に帰すものという発想。そしてそのポイントは、人が食事から形を作り上げる中枢である消化機能(中気)にあると李東垣は考えました。

胃腸が力を取り戻せば、生命の火を謳歌させる材料を得ることが出来ます。材料を得た火は、気となって体を巡ることで落ち着きを取り戻すことが出来ます。つまり「中を補い気を益すことで火をおさめる」。李東垣が提唱する補中益気湯には、そんな意図が込められていました。

金元時代。数々の医師たちが様々な学説を唱えたこの時代。実はもとを正せば全ての医師たちがある共通の命題に取り組んでいました。

「病の根源である火、その身体に発生した火をどう鎮めるのか」という命題です。

ある人は冷ませば良いと言い、ある人は下剤で除けば良いと言いました。このような「火を除く」という着想が自然である中で一人、「補う」という発想の中で火を鎮めようとした李東垣。

後世になって彼の学説が特に脚光を浴びているのは、彼の想像性が奇抜だったからではなく、あくまで正しかったからです。火を助長させないように如何に補うかという手法も含めて、誰もがなし得なかったことを成し遂げた天才、それが李東垣でした。

さて、李東垣による補中益気湯創立の物語をご紹介してきましたが、ここからは「じゃあ補中益気湯とはいったいどういう処方なの?どうやって使えばいいの?」ということに立ち返って説明していきたいと思います。

歴史から紐解く補中益気湯の本質的な薬能。後編ではその具体的な使い方も合わせてご紹介していきます。



後編に続く↓
【漢方処方解説】補中益気湯(ほちゅうえっきとう)・後編

■病名別解説:「起立性調節障害
■病名別解説:「不眠症・睡眠障害
■病名別解説:「多汗症・臭汗症・わきが・すそが

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