以前コラムで書かせていただいたように、
わたくし、お萩という猫を飼っています。
元気にしています。ちょっと太りました。
冬毛かも知れないけれど、より餅感が出てきました。
相変わらずの食いしん坊で、お腹が減るとわざと怒られることをします。
ドライフラワーを噛み壊すのが得意技です。それくらいなら、はっきり言って知らんぷりです。
でも最近はコンセントを噛むようになりました。
さすがに洒落にならんということで、ご飯をちょっとだけ、あげています。
こうやって、お萩は自分の意思を貫く術を身に着けていくんだなぁと。
猫ながらに知恵を絞っているんだなぁと。困り半分、少々関心しております。
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ところで猫を見ていて思うのは、
なんとシンプルな生き物なのだろう、ということです。
行動そのもので生命を謳歌しているというか、
頭で色々考えて行動するのではなく、あくまで体が自然にそれを行っているように思えるのです。
まぁ、実際にそうなんだと思いますけれども。頭で計算とか、できないわけですし。
でも、ああするべきとか、こうするべきとか、そういう信念が無いというのは、
それはそれで、とてもうらやましい、
生命活動として正しい、とさえ私は思ってしまうのです。
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武道とかでよくあることなのですが、
頭で考えるという行為をいかに無くすか、
体が本質的に備えている反応をいかに引き出すか、
そういうことが非常に大切なのだと。それを「理」と言ったりするものです。
体はもともと生きる術をすでに刻み付けていて、
そのための活動を自然に行っていて、
だからその働きをちゃんと継続できてさえいれば、最も長く、寿命を真っ当できるということ。
逆に、そこから不自然な要素が入り込めば入り込むほど、体のバランスを崩していく。
断捨離とか、ミニマリストとか、そういう話ではなく、
余計なものとは、まずは思考。
ああしなければいけない、こうしなければいけない、
そういう欲や、信念や、志や、夢でさえ、
あくまで生物という立場で見れば、あまり必要ないのかも知れません。
「考えない・考えていない」ということは
純粋に生きるということだけに、すべての感覚が集中している状態なのではないかと。
そんなこんなで、お萩をみていると、
この子はいいなぁと。
生命は、備わっている時点ですでに完全、ということです。
あ、でも違うわ。
お萩は食欲のかたまりだ。
そしてまた、がりがりがりがり、がりがりがりがり、
今もドライフラワーやらコンセントやらを噛もうとしているわけです。
でもまあいいか。元気な証拠。
コード噛み防止テープを巻いてきます。
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