何事もそうだと思うのですが、
腕が上がるということは、
当たり前だと感られるようになることです。
この感覚を説明することは少し難しいのですが、
とても大切なことだと私は思います。
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例えば、昭和の名医・中島随証(なかじまずいしょう)先生。
癌の患者さまを「小青竜湯(しょうせいりゅうとう)」で治癒せしめたという逸話があります。
この処方はアレルギー性鼻炎や喘息の治療薬として有名ですので、
癌に使うということ自体、非常に奇抜に感じられます。
よくその処方を選択できたなと。
さすが名医だなと。
しかし先生は決して奇をてらったわけではなく、
小青竜湯を使うことが当たり前だった。
あくまでそれを使うことが当然だったから、
小青竜湯を選択されたのです。
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漢方の世界では良くあることなのですが、
普通では改善することが難しいような病を、
普通では考えつかないような処方で治したという治験例が沢山あります。
ここでその処方を使うなんてすごい、なぜそんなことが出来るんだという、
感嘆と憧れとをもって、そんな治験例を沢山見てきました。
でもその治療を行っている当の本人からすれば、
おそらくそこには感嘆も感動もそれほどないはずです。
ただ、当たり前に治療した結果。
劇的な治験例というのは、傍から見てどんなにドラマチックであっても、
当たり前に治療したということに過ぎません。
確かに場合によっては、自分でも驚くことだってあるでしょう。
この薬でいけるかどうか分からないけれど、
とりあえず使ってみる。そして効果があったならば、その時は当然その効果に驚くはずです。
しかし、そういう治療はあくまで中。いっても中の上でしょう。
上等の治療というのは、どんな時でも当たり前に行われるものです。
傍から見てどんなに驚くべき内容であったとしても、
ただ淡々と、当たり前のことを当たり前に行う。そういう治療こそが上等です。
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当たり前に治療できる病を、
もっと増やしていきたい。
当たり前に出来ることを、もっと増やしていきたいです。
年を経るごとに、そういうものは確かに増えています。
そう実感はできますが、まだまだ足りません。
中島随証先生は、こう言われたそうです。
「肺に水があったから」
癌に小青竜湯を使った、その理由です。
当たり前に行われた時の理由は、いつだってシンプルです。
当たり前に出来る人ほど、その思考に乱れがありません。
迷いのない一本の線。
一つでも多く、そういう線が引けるようになりたいです。