私が最初にこの業界に入ったと自覚したのは確か23歳ころ、

北里研究所東洋医学総合研究所薬剤部(きたざとけんきゅうじょ・とうよういがくそうごうけんきゅうじょ・やくざいぶ)という生薬をガツガツに調剤させて頂く職場だった。

漢字十七文字の羅列というその名称が示す通り(?)、由緒正しい日本漢方の聖地である。

漢方のこと、仕事のこと、医療者としての心構えなど、基本中の基本を叩きこんで頂いた場所でもあった。

最初に漢方に触れたのがこの場所で良かったと今でも思う。

その理由は沢山ある。

例えばこの職場ではとにかく本が見放題だった。医史学研究を行う部署もあるため、普通では手に入らない相当マニアックな本も見ることが出来た。

また生薬を実際に触れさせて頂ける場所であることも大きかった。正直触れさせて頂くというレベルではなく、毎日粉まみれ(扱う生薬量がえげつない)になりながら上質な生薬を見て・触れて・味わわせて頂いた。

そして最大の恩恵は、当時漢方ど素人の私にマンツーマンで『傷寒論(しょうかんろん)』をご教授頂けた経験だった。

金成俊(キムソンジュン)先生。薬剤師でありながら韓医師の資格を持つ薬剤部長の先生に、直々に講義を頂けるという非常に恵まれた経験だった。

先生から教えて頂いたのは理屈や理論ではなかった。それよりもっと大切なこと、『傷寒論』の美しさや読むことの楽しさだった。

『傷寒論』が書かれたのは今からおよそ二千年前だと言われている。金先生は「作者(昔の人)の気持ちになって読みなさい」と何度も何度も私におっしゃられた。

この本にはこんな一文がある。

「太陽之為病、脈浮、頭項強痛而悪寒」
(太陽の病というのは、脈が浮いて頭と項(うなじ)が強ばって痛み、そして悪寒する。)

風邪に類する感染症治療を述べた『傷寒論』において、最も初発の症状、つまり風邪の引き始めの状態を述べた文章である。

金先生は私にこう問われた。「坂本君、なんで頭項強痛(ずこうきょうつう)なんて書いてあるのだろう?頭痛でも良くないかな?」

確かにその通りだった。風邪の引き始めならば「頭痛」と書けば事足りる。

私は答えた。「頭痛とは書きたくなかった・・・からでしょうか・・?」

先生はニコッと笑われてこう言われた。「うん。そうだね。風邪の引き始めは単なる頭痛ではないね。首筋が凝って背を突っ張らせながら頭痛を起こすよね。」

そう言われて私はハッとした。「頭項強痛」という文字から「肩をすぼませて首筋や背中にゾクゾクと寒気を感じている人」がイメージ出来たからだ。

「作者の気持ちになって読む」ということが、この時少しだけわかった気がした。

『傷寒論』は美しかった。

端的で簡略化されている文章であるからこそ、患者さまの情景を豊に想像できた。

そういう読み方を最初に教えてくれた金先生にお会いできたこと。かけがえのない経験をさせて頂いたことに、感謝の気持ちでいっぱいである。

現在、金先生は横浜薬科大学漢方薬学科の教授に就任され、漢方を志す学生たちに教鞭を執られている。

先生が教育者としての道を選ばれご活躍されていることが、私はとても嬉しい。

きっと金先生から教えを受けた生徒さんたちが、新時代の漢方を力強く担ってくれるはずである。

私もその一人。頑張りたいと思う。