・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
直線は人間のものであり、曲線は神のものである。
アントニオ・ガウディ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本当にたまたまなのですが、
私は周りに建築(意匠建築)のお仕事をされている方が多くいらっしゃいます。
話をさせていただく機会もそれなりにあり、
そのたびに新しい知識や視点、私の仕事との共通点を発見できます。
とても楽しいし、いろいろと建築のことを勉強することも出来ました。
そして何となく素人目に感じるのは、
建築のテーマとは要するに人と自然。
両者の関係をいかに捉えていくべきか、ということに帰結するような気がします。
・
建築。自然環境に建つ人為的構造物。
自然から身を守る構造物を作りつつも、それ自体は自然と調和することを願っている。
これが建築における大きなテーマの一つになっている気がします。
サスティナブルが騒がれている昨今だから、特にそう見えるのかもしれません。
でも多分これは歴史上、ある程度一貫して議論され続けてきている気がします。
ガウディが言っています。
合理的・人為的な構造物を「直線」とするならば、有機的・変則的な形を持つ自然(神)は「曲線」だと。
そして直線と曲線とは、そもそもその持ち主が全く違うが故に、
融合することが難しい。真逆の性質をどう折衷するのかが、建築の歴史を通じたテーマになっている気がするのです。
さらにこの難しさは、医学にも通じると私は感じています。
そもそも人間は自然物です。自然によって生まれ、自然の中で生きる自然の構造物です。
曲線的で変化的、有機的で変則的。一方で医学はそんな人間を、合理的・科学的な思考をもって解き明かそうとする行為です。
ちなみに東洋医学は科学では無いと言われますが、そんなことはありません。
確かに今の所、科学で証明できる医学ではありません。しかし客観的かつ合理的な考え方をもって知ろうとする行為自体が科学なのだとしたら、東洋医学であってもその姿勢は必要です。でなければ医学として成り立ちません。
すなわち西洋医学であれ東洋医学であれ、医学とは合理的・人為的な「直線」をもって、人間という「曲線」を理解し、影響を与えようとするものです。
そうであれば、やはり建築と同じ難しさがある。
人為的な考え方をもって、果たしてどこまで変則的な自然を理解し、自然と融和することができるのでしょうか。
建築家のアルバ-・アアルトは
「建築で最も重要な模範は機械ではなく、自然だ」と言いました。
医学も同じです。人はどこまでいっても自然物。
すなわち自然への理解こそが常に医学の目標であるが故に、
医学は直線をもってどこまで曲線を測れるのか、
その勝負をずっと続けているのです。
・
昔、姉とお酒を飲み交わしていた時に、
医者である姉はこう言いました。
世の中の全ての事象は、きっと科学で解明できる、理論的にはそうであるはずだと。
医学者らしい意見です。確かに私もそう思います。
ただし、私なりに疑問もあります。
もし変則的に揺り動く自然現象のメカニズムを、科学を幾重にも織り重ねることで解明できたとして、
その時出来上がったものを私たちは果たして、「科学だ」と認識できるのでしょうか。
今までの科学と同じ定義の上で、それを呼ぶことが出来るだろうか、と。
美術の世界ではこういうことが起こります。
機能性・合理性を突き詰めた結果、その形態がある種特別な美しさを帯びることが。
機能性・合理性という枠では捉えきれない美しさ。人はそれを「用の美」と呼びます。
「用の美」は機能的だから美しいのではありません。
機能という枠を越えて、すでにその存在・形態自体が美しいのです。
もしかしたら医学においても、同じような現象が起こるかもしれない。
つまり科学も突き詰めればその形を変えて、
結果として「用の美」と同じような新たな形と価値とを生み出すかも知れません。
合理を突き抜けて、より包括的な美しさを備えた神秘的なものへと。
そうなったらもうそれは科学ではなく、自然そのものだと私たちは認識するかも知れません。
・
科学とは「合理的・客観的に再現性をもって説明が出来ること」を指すのだとします。
そして自然現象という変数の怪物をもし合理的に説明できたとします。
しかしそれを合理的に理解できる人間はいったい何人いるのでしょう。
そうなってしまえばもう、人智の及ばない自然現象そのものを見せられているのと同じかも知れません。
そもそも自然は、私たちの体にそのまま備わっています。
ただ息を吸って吐き、食事を食べて汗をかき、寝て、排泄する。それだけで私たちは十分に自然と繋がっています。
すると、そもそも考える・思考するという行為自体が余計であり、不自然であるとも言える。
ならば私たちは一生懸命考えて、一生懸命努力しながら、わざわざ本来いるべき自然から遠くへと離れていっていることになります。
もし医学にその可能性があるのだとしたら。
医学の発展により、人がどんどん不自然な生き方を強いられているのだとしたら。
科学による解明の先が、人智の及ばないものになるのだとしたら、
結局振り出しに戻るだけ。それを解明する過程に、果たして意味があるのでしょうか。
・
作れば作るほどゴミを出し、環境に負荷を与え続けてきた「建築」。
科学的に捉えれば捉えるほど、本来人が持つ自然との調和が崩れていく「医学」。
両者が抱えている問題は、実は同じところに帰結するのかもしれません。
直線をもって曲線を測る努力は、今の所いびつな形を残しています。
しかし、たとえその過程がいびつな努力だったとしても、
その突き詰めた先に美の一部が宿ることはあります。
そしてそれは単に振り出しに戻ったのではなく、
人の思考が関与したからこそ生まれた美しさであるはず。
人が興してきたデザインという美意識の歴史にそれが垣間見れる以上、
私はこの努力は捨てたものではないと思っています。
医学を突き詰めた先に、自然的な美の安寧が宿ることを、
100年後か200年後か、この先願って止みません。
どうかまだ地球が、自然の形を残しているうちに。
そしてどうか人の行いが自然から、完全に見放されてしまう前に。
・
・
・