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色彩は私にとって一日中続く強迫観念であり、
喜びであり、
そして苦悩である。
-クロード・モネ-
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この前、
たくさん生薬が入っている処方は分かりにくい、
防風通聖散とか芎帰調血飲第一加減とか、
というお声を耳にして、
確かにそうだよなぁ、と思いました。
なんか色々と集まってごちゃごちゃになっている感じですかね。
単純に構成を覚えるのが面倒くさいというのもあるかもしれない。
例えば芍薬甘草湯なんて潔いくらい覚えやすいです。
それに比べて防風通聖散や芎帰調血飲第一加減なんて、
ゴッテゴテのモッリモリっていう感じです。
ただ、私は一概にそうも言えないのではないかなと思っています。
たくさんの生薬で構成されている、いわゆる多味構成処方は、
私には逆に分かりやすい。
むしろ構成が少ない処方の方が難しい。。。
今日はそんなお話です。
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構成が少ない処方の方が、理解することが難しい。
その理由の一つは、分かりやすいからこそ、理解したような気になってしまうからです。
芍薬甘草湯なんて本当にその良い例だと思います(※注)。
構成の少ない処方はそこから千変万化するからこそ、その本質的な意図を理解することが本当に大変です。
しかしその一方で、多味構成処方はむしろ分かりやすい。
多くの生薬が入っていればいるほど、それだけやりたい意図が明確になってくるからです。
処方には必ず作った人がいて、その人があーしたいこーしたいという意図をもって処方を作り上げる。
その時生薬が増えて付加される効能が多くなればなるほど、治そうとする意図が固定化されていくわけです。
ということは、構成生薬の多い処方ほど適応範囲が狭い。
意外に感じるかもしれませんが、漢方にはそういう理屈が一つ通ります。
例えば防風通聖散。いわゆる食欲旺盛で体力のある人。
太鼓腹で恰幅の良い人が起こす風邪や副鼻腔炎などが正証です。ただしこれって、かなり限られた適応範囲です。
足の攣りなら誰にでも使える芍薬甘草湯に比べればその差は歴然でしょう。
やろうとしていることが多ければ多いほど、生薬の数は増え、かつ適応の幅は狭まる。
つまり創作者が「これはこういう薬だ、こう使いなさい」と私たちに強いているわけです。
すわなちデコレートは、解釈を固定化する行為。
いわゆるデザインされるものであれば、何だってそういう傾向はあります。
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ただし、重要な話はここからです。
多味構成処方が分かりにく本当の理由は、これらが決して足し算や掛け算では理解できないという点にあります。
漢方処方はデコレートしていけばしていくほど、効能が追加される。確かにそういう側面はあります。
しかし、そうじゃあない側面がある。
これがとても分かりにくいと同時に、大変面白い側面でもあります。
例えば漢方一貫堂医学。
人を三つの体質に分類し、五つの処方をもって対応する医学。
防風通聖散・通導散・柴胡清肝散・荊芥連翹湯・竜胆瀉肝湯。
基本的にこれら五つの処方のみで治療しようとする医学ですから、その一つ一つの処方は相当広い範疇を包括しなければなりません。
にもかかわらず、これらは全て多味構成生薬。
本来であればその使い方が固定化されていてもおかしくない処方ばかりです。
しかも一貫堂では原型となる処方に、さらに生薬を追加している。
ゴッテゴテのモッリモリ、の処方ばかりを敢えて使っている。それなのになぜか、広い範疇を包括して治すことが出来たのです。
生薬の種類が沢山入っているのだから、多くの症状を包括して当たり前、
そう考える人は多いと思います。しかし先に申しあげた通り、それは誤りです。
生薬の種類が増えれば増えるほど、適応範囲は狭くなります。ある一点に向けて薬能が集約されていくからです。ただし、
ある条件が満たされれば、生薬の種類を増やしつつ適応を広げることが可能です。
一貫堂はそれをやっています。そしてこのやり方は、日本だからこそ培われた手法です。
その条件とは何か。生薬の種類ではなく「量」に鍵があります。
生薬一つ一つの分量を少なくすること。
多味構成生薬は構成する生薬の分量が少ない時に、その適応範囲を狭めず、むしろ広げた形で運用することができます。
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少量多味、という処方構成には不思議な力があります。
まず、漢方は生薬量が少なけれは少ないほど効果が弱くなるわけではありません。
むしろ少量の生薬だからこそ出てくる「響き」があります。大量の生薬では届かないところに届くことのできる力があります。
そして逆に当然ながら少量だからこそ効かないという場合もあります。ただしそれは体への負担が少ない、ということでもあります。
すなわち多味で構成された処方にはこの「優しさ」と、ギリギリで効かせる「響き」があります。
言い換えれば、少量だからこそ効いてくる作用と少量だからこそ無視される作用があるということ。
しかもそれが、人によってどの生薬が響いて、どの生薬が無視されるのかが変わる。
つまり同じ処方でも、人によってどう効いてくるのか、その効能が変化することになります。
これが少量多味で構成された処方が持つ特殊な能力です。
「響き」と「優しさ」を利用することで、対象によって自動的に薬能が選別され、各個人に合わせた効能を発動するという特徴です。
おそらくそういう効能があるからこそ、漢方一貫堂医学は治療体系として成り立っていたのです。
防風通聖散を臓毒証と称してある体質群を包括して運用すことができたのも、少量多味構成処方のこの特徴があったればこそ。
しかしこの運用方法は、防風通聖散の創作者・劉完素は想定していなかったはずです。
あくまで一貫堂が改めて防風通聖散を再定義したやり方です。
私はこの辺りがとても重要なことだと思っています。
すなわち、日本だからこそ発展した運用方法であるということ。
だからこそ、この方法論をちゃんと認識し、大切に継承していく必要があると思っています。
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少量多味で構成された処方がもつ不思議な力。
その穏やかさと響きとによって、病態を包括的に治療していく術(すべ)。
この繊細な治療方法が見いだされたのは日本だからこそ。
なぜならば日本人が、そもそも繊細だからです。
日本人は大陸国の人にくらべて薬が響きやすい。
だからこそ少量多味で構成されたアンニュイ(儚げ)な方法が作り上げられました。
この運用が芽生えたのは、我が国の後世方がその端を発していると思います。
「生殺し(効果が曖昧で弱い)」と揶揄される後世方ではありますが、この流派の功績としてもう一度見直されるべき点です。
私は防風通聖散や芎帰調血飲第一加減を見ていると、
まるでクロード・モネが画いた印象派の絵画を見ているような気持ちになることがあります。
シンプルな処方は確かに美しい。
しかしそれと同時に、一見デコレートに見える処方にもまた美しさの解釈が存在します。
例えば細かく繊細な色彩が散りばめられた絵画。
そこには強力かつ具体的な個が屹立していなくても、
明らかに明確な光を指し示す「響き」を感じることができます。
一貫堂流派を独自の解釈で再構築した中島随象は、
少量多味であるにもかからわらず、構成する一つ一つの生薬を非常に繊細に運用したそうです。
患者さんによって生薬を足したり引いたり、決して細部をおろそかにすることが無かった。
それを聞いた時私には、印象派の画家が、キャンパスに向かって慎重に一つ一つの色を塗り重ねていく様子が重なりました。
色彩が増えることは「こうしたい」という縛りを生みます。
しかしその塗り重ね方次第では、広く曖昧で、優しい世界を生み出すこともできます。
ただしだからこそ、一つ一つの色の変化が、全体に大きな影響を及ぼしかねない。
「色彩は私にとって一日中続く強迫観念であり、喜びであり、そして苦悩である。」
そう語ったクロード・モネの心境は、
きっと日本人ならば深く共感することのできる「美しさ」の解釈。
たくさん生薬が入っている処方を使う時は少しだけ、
そんな視点で見てあげると、また違った使い方ができるようになるかも知れません。
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※注)芍薬甘草湯なんて本当にその良い一例だと思います
→ これについての詳しい説明は以下のコラムを参照してください。
【漢薬小冊子】芍薬(しゃくやく)《note》

漢方坂本/坂本壮一郎|note