昭和から、平成を経て、令和に至る。
時代が変わると伴に、漢方家もまた、変わってきました。
性質というか。性格というか。
昔は職人然とした方々が沢山おられました。
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患者さまに対しても、そして教えを乞う弟子に対しても、
治してほしければ治してやる。教えてほしければ教えてやる。
時に怖さとも取れる、そういう威厳をまとった先生方が多かった。多分そう感じているのは、私だけではないと思います。
基本的にそのような態度では、ついていく患者さまも、そして弟子たちも、実に苦労を要します。
古いやり方として、それはもう時代が許さなくなった。
より相手の目線に立った態度が、求められるようになったのです。
人の話を良く聞く。
指導の前に、まず共感すること。
自分のやり方よりも、まず相手に合わせるやり方こそが求められるようになった。
ある意味で、当然のことだと思います。
かく言う私も、父とはその点でしばしば口論になりました。
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父は厳しい人だった。患者さまには、時に怖いという印象さえ発していた。
だから私は、逆に時間をかけて患者さまの話を聞いた。そして時間をかけて説明をしました。
昔気質の先代からしたら、そんな私の姿はまるで相手におもねっているように見えたのかも知れません。
決してそうではなかった。相手の目線に立てばこそ、自然と出る姿勢だった。
だから、たびたび口論になりました。
相手の目線に立つ姿勢、それは今でも正しいと、私は思っています。
ただ、父が言いたかったことが、
父がいなくなってから、少しずつ分かるようにもなりました。
父は多分、
「甘い言葉で人が治せたら苦労はしないよ。」
そう言いたかったのだと思います。
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耳障りの良い言葉をなげかければ、人を引き止めることは出来るでしょう。
しかし、人を治すことはできない。
これは真実だと思います。
相手の視線にいくら立っても、
その理由が自分のためならば、そこには何の意味もありません。
自分の腕の悪さは、いくら言葉で寄り添っても補えるものではない。
病を治す、症状を改善する、人のためにこそ相手の視線に立つならば、
時には厳しい指導も必要になる。無言で薬を出すこともまた、必要な時があるのかも知れません。
ただ私には、先代のようなやり方は出来ません。
どうしたって人それぞれのやり方で治療家の道は進んでいきます。
それでも良いのだと、私自身は思っています。
ただ、自問せずにはいられません。本当の優しさとは何なのか、と。
突き放すような態度は、本当に突き放す気持ちでしか発せられないのでしょうか。
責めるような指導は、治そうとする覚悟が無ければ出来ないのかも知れません。
「先代には大変良くして頂きました。」
「お父さまには、笑顔の印象しかありません。」
父から引き継いだ患者さまたちからこういうお言葉を頂くたびに、
驚きと伴に感じるのです、
本当の優しさとは、いったい何なのかと。
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