沢山勉強はしている、でも患者さまを治せない。
実はそういう事ってよくあることで、
私自身が、昔はそうだったと思います。
そこから脱却するために、今まで頑張ってきたと言っても過言ではありません。
今日のコラムは、そんな昔の自分への反省を込めて、
気付いたことを、端的にお話してみたいと思います。
今だからこそ、分かってきたこと。大切なことだと思っています。
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例えば何でもよいのですが、
「頭痛」と言われた時に、いくつ処方を思い浮かべることができますか?
頭痛に使う漢方処方。呉茱萸湯(ごしゅゆとう)とか、五苓散(ごれいさん)とか、川芎茶調散(せんきゅうちゃちょうさん)とか、釣藤散(ちょうとうさん)とか。
良く勉強されている方なら五つか六つは簡単に上がるはず。
10個くらいパパパッと思い浮かぶ方もいるかも知れません。
では、これはどうでしょう。
「頭痛」と言われた時に、
何人、患者さまを思い浮かべることができますか?
実は、ここが学者と臨床家との違いです。
処方を思い浮かべることが出来たとしても、患者さまが思い浮かばない。
この状態が、勉強をとても頑張っているけど、治せないという状態の典型だと思います。
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臨床家に愛される漢方の聖典・『傷寒論(しょうかんろん)』。
この本には何が書かれているのか。
処方? 症状?
人によっては、どのような症状にどの処方を使うかが書かれている、いわば処方集のようなものだと言われる方もいます。
しかし本当にそうでしょうか。
私は違うと思います。
『傷寒論』には、人が書かれています。
病を患う人。つまり患者さま。
『傷寒論』には、非常に具体的な、「患者さま」が書かれているのです。
だから『傷寒論』の文章を読んだ時に、人を思い浮かべなければ読めていることにはなりません。
症状をパズルのようにならべ、そこから処方を紐解いたとしても、
何の意味もありません。思い浮かべるべきものは、人なのです。
気力を失い脱力した姿態、苦悶に満ちた表情、
そういうリアルな患者さまが、生き生きと描かれています。
写真も撮れない、動画も撮れない、絵をかく余裕もない(そもそも紙がない)。
そういう時代だからこそ、一言一句の文字に人を乗せた。
それが読めるようになった時、
初めて『傷寒論』が、臨床の本になるのだと思います。
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