昔、漢方の教育の多くは師弟制度をとっていました。
弟子が師から直接学ぶという形で技術を磨いていく。
その時、師は決して手取り足取り教えることはなかったそうです。
むしろ隠そうとする。
それを、弟子が「盗む」ことで知識を習得していく。
多分、漢方に限ったことではなくて、
「芸」と呼ばれるものであれば、何であれ教育の現場にはそのような緊張感があったのだと思います。
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名匠は規矩(きく)を教えて、準縄(じゅんじょう)を教えず。
良い師ほど手本を示すのみにて、自分が為していることの詳細は弟子に伝えません。
師匠が見せるのは、自分が出す処方のみ。
弟子はその処方を見て盗むことで、
見様見真似で使いながら、師匠の技を掴んでいくのです。
どうして効くのか、どうしてその処方なのか、
師はそういうことを一切自分の弟子には伝えません。
伝えたとしても「〇〇だから」という非常に簡潔なヒントだけ。
それでも弟子はその処方を使うことで、
自らの腕を磨いていったのです。
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見様見真似で使っていたとしても、
どうしてその処方なのかということを理解していなかったとしても、
師匠が示した処方を使うことで、驚くべき効果を発揮することは漢方では良くあることです。
それだけ師の処方が優れているということ。
長く研鑽の詰まれた処方であるからこそ、
例え盲目的に使ったとしても、効果を発揮できる処方を手本として示すことができるのだと思います。
ただし、処方はあくまで「道具」。
人の技術・技能によって使われてこそ、はじめて光る「道具」です。
素晴らしい道具であればあるほど、拙い技術を隠してくれます。
しかしその分、自分の腕は磨かれない。
処方に溺れる。素晴らしい師匠から盗む技には、そういう危険が常にはらんでいるのです。
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〇〇の病が治った。
そう聞くと、誰しもが知りたくなるはずです。
いったい何の処方を使って治したのかと。
ただしその処方を知ったところで、大した意味はありません。
薬が病を治したのではなく、あくまで「治るように使った」ということに過ぎないからです。
めまいには、半夏白朮天麻湯など使わない。
沢瀉湯を考えろ。
私は師からそう学びました。
そして患者さまを通して、確かにと思う経験を沢山させて頂きました。
しかし、なぜそうなのか。
なぜそういう解答に行き着いたのか。
最も重要なことは、そう考える癖をつけること。
処方ではなく、それこそが、師匠から盗むべきものなのです。
なぜならば、
めまいに沢瀉湯を使った、そしてもし効かなかった場合、
師匠の手先だけを盗んでいたら、絶対に半夏白朮天麻湯は使わないでしょう。
使うべきです。
師匠の考えにない処方だっとしても、いやむしろ、そうだからこそ使うべきです。
そうしなければ、師匠が得てきた経験を、自分のものにすることができない。
「盗む」というのは、そういうことなのです。
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「盗む」と言えば、聞こえは悪いかも知れません。
ただ、盗まれる師匠と、それを盗もうとする弟子。
そういう緊張感こそが、とても大切なのです。
師匠も弟子も、「本当」のことをもとめている求道者であることに違いはありません。
信じて疑う姿勢。
疑ったものの先にある解答こそが、「盗むべき技」なのです。
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