たくさんの先生方に支えられてきたからこそ、今の自分があると実感する中、
正しい漢方を次世代に伝えていくという気概を込めて、書き進めてきた「漢方治療の心得シリーズ」。
どこまで書けるかなと思っています。そして今回、26回目を迎えました。
今までとりとめもなく書いてきたという印象があります。
そこで、今回は少し真剣に考えてみることにしました。
教科書的な思考からいかにして脱却すればよいのか、ということをです。
漢方治療というのは、どうしても教科書通りには行かないという現実があります。
であるならばどう正しく漢方を伝えれば良いのか。
腕を上げていくにはどうしたら良いのかということを、少し道筋立てて、お話できないかと思ったのです。
今までも、もちろん真剣に書いてきました。
ただ今までの総集編みたいなものを書けないかなと。
漢方医学、この世界への潜り方。
表層的な漢方ではなく、今一歩深く潜るためにはどうしたら良いのか。
まだまだ道半ば、半人前の私ですが、
お時間がある時にでも、お読みいただければ幸いです。
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〇漢方医学への潜り方
そもそも漢方医学の世界は、2つの視点から理解することが求められています。
一つが「道具(漢方薬)の理解」。
そしてもう一つが「病と人との理解」です。
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道具の理解
湯液家(漢方薬を使って病を治療する者)は薬という道具を使って人に変化を与える職人です。
料理人が使う包丁や食器のことを熟知しているように、我々も薬という道具のことを熟知していなければなりません。
しかし漢方薬は非常に複雑な構造をもった有機体であり、その理解が一筋縄には行きません。
まず誰もが最初に頭を悩ませるのが、この漢方薬という道具の使い方だと思います。
私が最初に漢方を勉強した病院では、
漢方薬の構成や薬味の加減(分量や生薬を加えたり引いたりすること)を行うことはタブーとされていました。
各処方には、各々異なった正証があると。
ちゃんとその正証を理解するまでは、無闇矢鱈に加減してはいけない。返って理解が深まらないという考え方が、常識とされていました。
この教えは、まったくもって正しいものだと私は感じます。
まず理解するべきは、各処方の正証です。それが出来なければ、漢方薬をいつまでたっても理解することはできません。
様々な構成を持つ漢方薬ですが、それには深い意味があります。
創作者の意図がある。その意図をちゃんと理解し、実感することがまずは大切です。
患者さまと対峙した時に「あ、この処方が使えそうだなと」感じることができるのかどうか。
正証を実感したことのある方でないと、これができるようにはならないのです。
さらに、道具の使い方にはその先があります。
様々な処方を使いこなせるようになってくると、次第にその漢方薬を構成する各生薬の意図が分かってくるようになってきます。
すると、今度は各生薬の正証が理解できるようになってくる。
「この生薬が使えそうだな」という思考になってくるのです。
こうなってくると、そのポイントになる生薬から使うべき構成が自ずと浮かんできます。
そして処方にとらわれることなく、より広い運用が可能になってきます。
ある意味で、処方という縛りのない世界へと足を踏み入れた状態です。
そうなってくると加減が的確に行えるようになります。処方の組み合わせや、その分量配分などが、自由かつ的確に運用できるようになるのです。
デザインの真髄は細部に宿る、ということ。
道具の理解はまず正面の理解から始まり、細部へと入り、さらに細部の意図が自ずと全体へと広がり、自由な運用へと達す。
最も重要なのは、この順序です。
処方の正しい使い方を理解していなければ、各生薬のことなど絶対に理解できません。
そして見様見真似で名医の使う加減を用いたとしても下手がバレるだけ。病も治らなければ、腕も上がりません。
だから、始めから加減や合方を使うなどは、もっての他なのです。
ちなみに自由へと達したならば、その時は道具は何であっても良くなります。
道具ではなく、意図によって人を治せるようになるからです。
この状態を融通無碍というのでしょう。
「竜胆瀉肝湯がありますから・・。」という中島随象先生の名言は、この理によって生まれたものです。
(※→漢方治療の心得 5 〜視点〜)
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病の理解と人の理解
病を治す、症状を改善するということが我々に求められている本質です。
だからどうやって病とそれに伴う症状を改善・緩和するのかということに知恵を絞るし、そのために我々は勉強をします。
しかし、病を知ることと、人を知ることとは、実はかなり違うものです。
病が治せるようになってきたとしても、その上で人を理解している方は、実は少ないのではないかなと私は感じています。
人間がどういう構造をもっていて、どういう活動を行い、どう生きて、どう寿命を全うしていくのかという人の生理。
それを、東洋医学的に把握しているのかどうか。
臨床の腕は、ここで大きく分かれるのではないかと私は思います。
なぜならば腕の良い先生は、病を論じることと同等、時にそれ以上に、人を論じることが出来るからです。
我々は、病理を知り、そこから人の生理を理解します。
そういう順序がある。この順序でしか知識を深めることができないという宿命があります。
本当は、逆であるべきです。人の理解の後に、病の理解があって然るべきです。
なぜならば、人の生理がまずあって、そこから派生してくるものが病理だからです。
しかし、我々はそういう順序で知識を深めていくことができません。
東洋医学は、どうしても経験を拠り所にする医学です。治療という経験を通してのみ、考え方が構築されてくるというのが東洋医学です。
それ故に、我々は必ず病を治そうとすることから始めなければならず、つまり病理を知ってそこから生理を学ぶという順序にどうしてもなってしまいます。
そうすると、我々はある程度病を治すことには長けてきます。
しかし、そこから先への領域にはなかなか足を踏み入れることができません。
人をどう理解したら良いのか。人間に備わる生理現象の「理」を、把握する所までなかなか向かえないのです。
人の「理」を理解していなければ、尺度のないまま物を測るのと同じです。
病を正確に測ることができない。ただ症状という現象だけを追うだけの治療に終始してしまいます。
治療に一貫性が産まれてこないのです。症状をパズルのように組み合わせるだけの治療になります。
それを続けていけば、パズルは上手になるでしょう。
しかし、パズルではないという領域へは、足を踏み入れることができません。
〇〇病にこういう処方が効きましたとか、〇〇湯でこういう病を治しましたとか、
そういう症例報告は星の数ほどあります。
しかし、本当はそれだけで終わってはいけないのです。
人はこうであるとか、すなわち人の活動はこう理解するべきだとか、
人の理解へと思考を進めていかなければならない。
それが大切です。
臨床の腕は、ちゃんと人を理解しているかどうか、にかかっていると私は思います。
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