漢方医学はそもそも「曖昧」なものです。
この医学の宿命です。体の中を想像することで作られてきた医学だからです。
現在では生きた体を中を見ることができるようになりましたが、
それでも漢方の土台には必ず、この「曖昧さ」が介在しています。
しかし当然、曖昧なままでは治療ができません。
正しい想像力をもって、どうにか体の中を知る必要があります。
曖昧さをどうしても伴う治療の中で、いかに具体的なものをつかみ取るのか。
そうやって経験を積んでいくうちに、まず分かってくるのが「体質」というものです。
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ある方にはこの薬が効き、そして違う方にもまた同じ薬が効く。
そういう経験を積んでいくうちに分かってくるのが、人にはある薬が適応しやすい体質がある、という事実です。
例えば桂枝(桂皮)剤が適応する方には、ある特徴があります。
また半夏剤が適応する方にも、ある特徴があります。
その方が起こしている症状や得ている病はもちろんのこと、
滲み出る雰囲気や印象などを通じて感じることができるものです。
この明らかに存在する「体質」というものを、
理解しながら治療することが漢方では大切です。
時に気・血や陰・陽と言った見立て以上に、治療効果を左右する「武器」になります。
この体質的特徴というものは、経験を積むごとに自然と感じられるようになるものですが、
いかんせん現代の東洋医学では、この「体質」というものへの考察が幾分希薄であるように、私には感じられます。
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昭和の時代。
いわゆる昭和の大家たちが隆盛を極めた時代。
当時は今よりもずっと、この「体質」というものに深く着目していました。
人の病態を5つに分類した森道伯の漢方一貫堂医学は、明らかに体質に根差す治療を推奨しています。
また昭和大家の師匠として知られる湯本求真は、基本処方の組み合わせを駆使してやはり体質治療を試みています。
また○○剤が適応する者には□□の傾向がある、とか、
畢竟△△の生薬はこのような人に使う、とか、
そういう「体質」の見極めを要とする口訣が多く示されてきました。
それが現代では、いつの間にか言われなくなってきた。
おそらく単に症状を追いかける治療が、是とされている傾向があるからかも知れません。
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例えば動悸とめまいと浮腫みがあり、小便の出が少なければ苓桂朮甘湯が想起できます。
しかし同じ症状があったとしても、温胆湯でなければ改善できない場合があります。
また同様に、加味逍遙散でなければダメな場合もあります。
これらの違いをどう見極めるのか、
それには単に症状だけを追いかける治療では、到底難しいと思います。
桂皮適応の体質者が分かることで、苓桂朮甘湯が正確に使えるようになり、
半夏適応の体質者が分かることで、温胆湯が使えるようになる。
漢方は経験がものを言う医学ですが、その理由がこの辺りにあるように感じます。
症状の羅列から処方を導き出すことはAIにも出来ますが、
やはり漢方は人の医学。印象を言語化・数値化することは、どうしても難しいものです。
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数値化できないものの、明らかに「体質」というものはあります。
そしてその理解は武器になります。ある程度、治療の先を見通すことができるようになるからです。
ただし「体質」というものの存在が、曖昧であることに変わりはありません。
曖昧さからは逃れることができない。だからこそ、それに依存することもまた危険です。
「体質」を知った上で、それによる治療の難しさを少々。
例えば半夏が適応しやすいだろうという、半夏適応体質を患者さまから感じたとします。
当然、半夏が使いたくなります。しかし、半夏を使わずに治療した方が良いケースもあります。
例えば先に述べた一貫堂医学では、基本五方に半夏を含む処方がありません。
時に半夏を含む二陳湯などの合方を指示してはいますが、基本的には半夏剤がとても希薄です。
しかし一貫堂においては、それで良いのです。なぜならば、半夏体質者というは、視点の一つにしか過ぎないからです。
彼は半夏を使うが私は使わない、それで正解なのです。おそらく森道伯であれば、半夏体質者であったとしても、使う方剤は防風通聖散です。
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体質を知ることは重要ですが、その体質治療に溺れると、逆に治療を見失います。
必ずしも固定しない、流動的な思考。
おそらく大切なのはそれで、知っていたとしてもその上で何を行い、何を行わないか、が重要です。
この前芸人が、何を言うかは知性、何を言わないかは品性、と発言していたのには感銘を受けました。
湯本求真はこれを使うだろう、一貫堂ではおそらくこれだろう、
その上で、私は最も効率よく解決できる策としてこれを使う。
それぐらいに俯瞰して、治療方針を見極められることが、
品のある治療、といった所でしょう。大切なことだと思います。
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