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作曲の95%は、過去の遺産を糧にしています。
作曲家自身の「発明」は、せいぜい1、2%程度で、最大5%といったところ。
-坂本龍一-
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現在、伝統医学として存在している漢方が、
過去の経験を拠り所にしているという事実を疑う人はいないと思います。
歴史を知り、古典を読み、過去から学ぶ。
そういう作業を経てはじめて、漢方治療に精通していきます。
漢方の名医と言われる人たちは、もれなくそういう学びを行ってきた人であり、
そもそも漢方の世界とはそういうものであると、志す人の誰もが感じています。
事実、目の前の患者さまにどのような薬を選択するべきなのか、
その解答を得ようとするならば、まず根拠とするべきものは古典です。
すなわち先人から人の見立てを学び、処方の使い方を知る。
それを一つ一つ積み上げていくことで、徐々に漢方を正しく運用できるようになります。
と、ここまでが基本ですが、
残念ながら、これだけでは人を治せるようにはなりません。
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私もずっと古典を読み続けてきました。
ある時までは。
途中でふと、思い立ったのです。
古典を閉じて、自分で考えてみようと。
古典には解答がある、古典を解説してきた先人たちはきっと答えを知っている。
そう考えていたし、そう信じてもいました。だから目の前の患者さまに使うべき処方を、
過去から紐解こうと机に向かってきました。
しかしある時思ったのです。
今実際に私の目の前にいる患者さんを、過去の名医たちは診てはいません。
時代が変われば、人は変わる、病も当然変わります。
医学において時代が変わるということは、闘うべき土俵が変わるということです。
過去にヒントがあることは確かです。
しかし土俵が違う以上、解答は今現在を生きている自分自身で見つけるしかありません。
そうやって紡がれてきたのが、漢方の歴史。
知識を古典から学び、基礎を得て、素養・教養を育み、治療に臨む、
ただしその知識や基礎は、あくまで過去のもの。今、目の前に起こっていることではありません。
だからこそ自分で解答を見つける。時には基本を覆し、先人の意見に異を唱えながら、漢方は成長し続けてきました。
困った時ほど古典に返る。困った時ほど基礎に戻る。
それも一つかもしれません。しかし、おそらく本当に欲しい答えにはたどり着けません。
持てる知識と自分の経験を精一杯に使って、結局のところ、自分で見つけるしかない。
そういう考えで対峙した時から、
漢方の世界は私に違うものを見せてくれるようになりました。
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歴史に裏付けられた医学、漢方。
だからこそ、古典に答えを見出そうとすることは間違えではありません。
しかし、過去に解答はない。
今目の前の問題を解決する回答は過去にはないし、
今まで作られてきた基礎に戻ったとしても
それだけでは、答えを見つけることはできません。
歴史と基礎と、自分に育まれた漢方の素養・教養を以てして、
新しい考え方、新しいルートを見いだせるかどうか。
故・坂本龍一氏が言うようにそれがたとえ5%に満たなかったとしても、
その5%こそが新しい時代を推し進めていく力になる。
最近拝見した師匠の言葉、「可能性は余白にある」。
父が残した看板に書かれた「温故知新」の文字。
故きと戯れているうちに、白いキャンパスに自分自身の絵が描けるようになること。
その力を持てる人このことを、
センスがある、というのでしょう。
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