東洋医学をもってお体の状態を把握する際、
何が難しいかって、尺度が無いことがとても難しいのです。
いや、尺度はありますよね知らないんですかとツッコミを頂きそうですが、分かります。
確かに虚実や表裏、寒熱や陰陽といった尺度が東洋医学には用意されていますが、
しかしこの尺度で体調を測ろうとしたことのある方なら分かるはずです。
本当に測れていますか?
これらの尺度、本当に使えているでしょうか?
虚証ならば補うし、熱証ならば清熱を図ります。
表証ならば発表しますし、寒証ならば温めます。
はっきりと決められています。分かりやすいです。
それはそうなのですが、では「完全に虚証」、という人を今まで見たことがありますか?
見たことあるよと言うならば、
それはどの程度で、
それを何で表現するのですか?
六経ですか?臓腑ですか?それとも衛気営血ですか?
さっきからいったい何を言いたいのかというと、
そもそもこれらの尺度で人を測り、それを表現することは難しいということ。
全てはグラデーションによって成り立っている、ということです。
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「虚」という概念は、そもそも人を「虚」と分類することに意味があるわけではありません。
「虚」と「実」という二つの端、その間に広がるグラデーション、
その濃淡を作り出すことに意味があるのです。虚中に実があり、実中に虚があって当然なのです。
つまり東洋医学における全ての尺度に絶対的なものなどない、ということ。
寒熱も表裏も陰陽も、
清熱・温補、発表・攻裏、標治・本治でも同じことです。
完全にいずれかの状態に傾倒しているものなどありません。
どこまでいっても、その濃淡を把握する技術を求められているのが東洋医学です。
「虚」ならばどこからが「虚」なのか、
「熱」ならどの程度までを「熱」というのか、
それらの尺度の基準を、ちゃんと持っているのか。
おそらく、はっきりとここからここまでと基準を設けている先生はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。
それくらい難しいことなのです。
はっきりと「虚」と示すことも、
「熱」もそうだし、「寒」もそうです。これらを断定することはとても難しいことです。
しかし、示さなければならない時があります。
人に説明する時です。
東洋医学はそれを人に説明するとき、どうしても二元論、つまり二つに分類することで分からせようとします。
混沌から規律を生み出すために、蒙昧から理解を導くために、
どうしても極端に言わざるを得ない。だから病態を敢えて断定するための説明をせざるを得ないのです。
しかし、人は簡単に断定できるほど単純ではありません。
全てがグラデーションという濃淡を持ち、はっきりとしない曖昧な状態でいることの方が自然です。
そしてもしそういう曖昧さを、曖昧なまま、理解することができたとしたら、
それこそが「東洋医学的に人を把握する」ことになるのではないでしょうか。
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葛根湯は発表剤です。
発汗させて邪を除く瀉剤です。
表治剤であり、陽証に用いる薬です。
ではなぜ、その中に桂枝湯という補の意味合いのある薬が内包されているのでしょうか。
漢方薬には完全に瀉剤と言い切れる薬は一つもありません。
補・瀉、清・温、標・本、表・裏、そのバランスをとる構成が必ず為されています。
そして漢方処方は人体が起こす現象を形にしたものです。
であるならば、人体も処方と同じく必ずバランスの中で成り立っています。
であるにも関わらず、この処方はやれ瀉剤だと、この人はやれ虚証だと、
簡単に割り切って説明していることが、安易に思えてしまうのです。
一つ、事実を言えば、
漢方の先生はその道を深く進めば進むほど、
あまり虚実や寒熱を安易に言わなくなります。
中島随証先生などは、胃腸が弱い人に平気で防風通聖散を出したそうです。
バランスの中で見極め、バランスの中で治療する。
そういう配慮が出来ていたからこその配剤なのでしょう。
私も近年、陰陽虚実や寒熱や気や血や水、
これらの言葉を使って患者さんに説明しなくなりました。
敢えて使わないようにしているのではありません。
使うと正確に説明できなくなったからです。
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