久々にお萩(飼い猫)の話です。
やや丸くなりました。冬毛になりつつあります。
寒くなってきて近くに寄ってくることが多くなりました。
しかし残念ながら最近のお萩は私の膝には乗らず、
もっぱら妻の膝に乗りたがります。
ニーニー、ニーニー、
膝に乗せてと妻にせがむお萩が微笑ましい。
そしてけっこうしつこい。
乗せてくれるまでかなり粘ります。
乗せてもらってもしばらくするとプイっとどこか行っちゃうくせに。
そういう気分屋なところが猫って感じで、かわいいです。
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猫は欲望に正直です。
一緒に生活していると良く分かります。
欲望に真剣というか。真っ直ぐというか。
でも猫は人と違って、欲望丸出しなのにどこか節度も感じます。
例えばトイレ。なぜか砂とか土とかを好む。だから糞便はちゃんと土に還る。野良猫はプランターなどの人口土にもするから迷惑になることもあるけど。
あと無駄に物を倒したり壊したりもしません。置いてある物に触れずに歩く姿は見事なものです。
寝たり、追いかけたり、ご飯をねだったり。
全力で欲望を謳歌しているのに、どことなく節度というか、品があります。
それと比べると、人の欲望はどことなく下品な気がする。
同じ欲望なのにいったい何が違うのだろう。
多分、「想像力」なのかなと。
人は想像力を持つが故に、欲望を捻じ曲げてしまう気がします。
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想像力。人を人たらしめる重要な能力。
しかし時に想像力は、人にとってネガティブな能力になり得ます。
例えば、人は十分に足りていたとしても、想像力があるからこそ足りていないと認識させられます。
今よりもっと良い生活を「想像」できるから。際限なく、もっと良いものを想像することが出来ます。
そして想像を止めることも難しい。
今より良いものを想像させられる、そんな情報が常に目の前に飛び交っているからです。
その中で自分の状況が満ち足りていると、常に感じ続けることが果たして出来るかどうか。
故に、欲望は尽きることが出来ません。
それが、下品な気がするのです。
良くも悪くも、猫にはそういう想像力が、多分ない。
今よりもっと良い生活なんて想像していない。「今」が全てだから。
過去の経験から欲望が変化することはあります。例えばちゅーるをあげれば次の日もちゅーるを欲しがります。
でもちゅーるをあげていないのにちゅーるを欲しがることはありません。
今よりも良いご飯があるなんて想像していないから。
猫にとっては目の前にあるご飯が嬉しいというだけ。今が全てだからこそ、その欲望は潔く、真っ直ぐです。
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無駄のない欲望。
真っ白で純粋な欲望。だからこそ品がある。下品とは、無駄に膨れ上がった欲望を指している気がします。
あれが欲しい、これを食べたい、こういう生活をいつかしてみたい。
たとえ経験したことのないことであったとしても、
リアルに想像してしまえる人間。
だからこそ、人はどこまでも下品になれる生き物なんだろうなと。
願わくば、無駄な想像は極力省いていきたい。
今まで想像力こそが人の力だと思っていました。
漢方治療においても大切なのは想像力。これはたぶん正しい。
でも想像力は良い側面だけではない。そのことに、お萩を見ながら気が付いた。
ありがとうお萩。
しかし結局ぐるぐるぐるぐる、こんなことを考え続けている私は、
おそらく無駄だらけの想像力で出来ている。あぁ、品が無いな。
とまた不足・不満を自覚する。無限ループが人間って感じで、切ないです。
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