補と瀉

2024年07月18日

漢方坂本コラム

今日のコラムは

単なるフワフワした感想とひとり言です。

ですので軽くお読みください。

私はある時から漢方薬を使う際に、

「補瀉」を考えなくなりました。

「補法」と「瀉法」は漢方の基本中の基本でして、

補瀉を考えてないなんて言えば、それこそ漢方の名医たちに怒られてしまいそうです。

虚証ならば補い、実証ならば瀉す。

この原則で言えば補瀉を考えていないということは、

虚実も考えていないということですので、はっきり言ってそんなことはけしからんと思います。

でもそうではなくて。

虚実は知る必要があります。

しかしそれを見極めたとしても、補瀉では治療を考えないということです。

もっと言ってしまうと、

漢方薬はそもそも何かを補ったり、何かを瀉したりする目的で作られていないという感覚。

奇抜なことを言っているようですが、

ある時から、私はそう考えてしまうようになったのです。

補瀉に意味がない、とは言っていないのです。

むしろ補法・瀉法は理に適っていると思います。

ただ、私のクセというか、考え方から言うとそれよりもずっと重要なことがあって、

それは何かというと、「助ける」ということ、

その人が、何をして欲しいのかを見極めて・・・・・・・・・・・・・・それを助ける治療を行う・・・・・・・・・・・ということです。

こう言うとたぶん、患者さまの心に寄り添った治療とか、

言葉の奥にある気持ちにちゃんと目を向けようとか、そういう意味に感じるかも知れませんが、そういうことではないのです。

誤解を招かないように言えば、治療においてはそれも当然大切です。

ただしここで言っていることは、そうではなくて、

あくまで「体が欲していることを汲み取る」ということです。

人の体は、自分で気が付かないうちに、

必ず何をしよう、どこへ向かおうという何らかの「働き」が起こっています。

人は自分の意志だけで体を動かしているわけではありません。

かなりの活動が、自分の意志とは関係なく自動的に行われています。

その働きを見極めて、体が何をしようとしているのか、何を欲しているのかを見極める。

体から発している症状から、それを紐解いていく。

そして、それを救うことのできる漢方薬を服用するという治療。

私の経験から言うと、この視点で行われてた治療が、最も効果を上げていくという実感があります。

だから、補瀉はあまり考えません。

考えないというよりは、そこをあまり重視しません。

虚実は見極めます。しかし、あくまで救った結果として虚実は解消されます。

患者さまの体が、「欲している」ことを探す。

そしてそれを「救う」ということ。

漢方の基本とはズレたこをと言っている自覚は大いにありますし、

個人的な意見ですので、これが正しいと言っているつもりも全くありません。

ただ、あくまで私の見解ですが、

これこそが、漢方治療の本質的な目的だと感じています。

そもそも『傷寒論』には「之を補う」とは一切書かれていませんし、

「瀉す」という言葉は『傷寒論』では鍼治療において使われている言葉です。

多分、いわゆる虚実を補瀉するという概念はあくまで後人の後付けなんじゃないかなと。。。

むしろ私は、この「救う」という言葉にこそ、

張仲景の思想を強く感じるのです。



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※コラムの内容は著者の経験や多くの先生方から知り得た知識を基にしております。医学として高いエビデンスが保証されているわけではございませんので、あくまで一つの見解としてお役立てください。

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