■症例:蕁麻疹(じんましん)

2021年02月02日

漢方坂本コラム

基礎が大事。

何事においてもそうである。

しかし基礎だけでは通用しない。

それが、漢方治療の現実でもある。

22歳。色白にて細身の女性。
蕁麻疹の治療をお求めになり、当薬局にご来局された。

発症したのは4カ月前。
最初は太ももやおなかに出ていた。

そのうち、ひじ・わき・背中・手指に広がってきた。
効いていた抗アレルギー薬が効かなくなってきたため、漢方薬でどうにからないかと、ご相談に来られた患者さまだった。

今は出ていない。そこで患部を写真で拝見させて頂いた。

やや淡さを感じる発疹で小豆大からソラマメ大。
痒みが強く、掻くと発疹が膨らみ広がるので毎日我慢している。

寒冷刺激では起こらず、患部に熱感もない。
しいて言えば夕方から夜にかけて出てくる傾向があり、寝る前にやや強めの痒みがくる。

二便(大便・小便)正常、食事はきちんと節制していて食欲にも問題はない。
冷えはどちらかと言えば冷えるというくらい。浮腫(むく)みもたまに感じるという程度だった。

月経周期正常、イライラも生理痛もない。
痒みが経前に増悪するということもない。便通でさえ特に変化はなかった。

疲労感もそれほどない。眠れないということもない。

ただ一点蕁麻疹を除けば、特筆するべき問題は何も見当たらなかった。

際立った症状がないという場合ほど、漢方治療は難しくなる。

体質的な問題点を見つけることが出来ない。しかし、打つ手がないというわけではなかった。

皮膚そのものに対してアプローチするという手法。
つまり標治(皮膚に生じている炎症・腫れ・痒みなどををまず抑えるという治療法)を行うことが妥当に思えた。

ただし皮膚症状自体にもそれほど際立った特徴はない。
おきている膨疹はそれほど強力なものではなく、東洋医学的に言う所の寒証にも熱証にも属するものとは違っていた。

中位に属する蕁麻疹。
そんな印象の皮膚症状である。

であるならば、先ずは当たり前に用いる薬でよい。

基本処方・消風散。
一週間分をお出しし、様子をみることにした。

一週間後、皮膚症状には全くといっていいほど変化が見られなかった。
そして味もまずかった。ぎりぎり飲めるがこれ以上続けるのは難しい。申し訳なさそうに、そう正直にお話ししてくれた。

基礎治療では通用しない。直感的にそう思った。
把握しきれていない情報が必ずあるはず。とにかくお話を聞くことだった。

その中で、患者さまは少し気なることをお話された。
以前、家にたまたまあった漢方薬を服用した時に、少しだけ痒みがひいた気がしたのだという。

ただしその薬はそのうち効かなくなってしまった。
だから患者さまとしては治らない薬として気にも留めていなかった。

しかし、私にとっては無視できない情報である。
治療の糸口を掴めるかもしれない。その処方の名を聞いてみた。

漢方でいう所の、いわゆる「補血剤」だった。

この場合に「補血剤」?。

私は疑問に思った。

補血剤とは血を養う薬であり、
温性を持つことから下手をしたら炎症を悪化させることがある。

しかも蕁麻疹では皮膚から浮き出る水を収め、燥(かわ)かさなければならない。
しかし補血剤はむしろ、皮膚に潤いを持たせてしまう薬である。

一時的とは言え、補血剤で痒みが止まった。

漢方治療の基礎から言えば、方剤と病態とに明らかな矛盾があった。

常道からすれば全く予想していなかった薬である。

しかしそれでも私は、この事実に一瞬肺腑を突かれた気がした。

会話を止めてしばらく考えた。
私の中で基本としている考え方自体が、治療を妨げているかもしれないと感じたからだ。

そもそも、これは血の薬、これは水の薬だと、
そういう解釈は漢方治療を説明するための一概念に過ぎない。

臨床における事実は、時として理屈以上に重い。
この場合尊ぶべきは、以前服用された補血剤によって一時痒みが止まったという患者さまに起こった事実である。

であるならば・・・。

私はその補血剤の中から一つの生薬を選び出し、それを主軸とした処方をお出しした。

半ば勇気がいる選択だった。下手をしたら悪化させまいかという疑念があったからだ。

出した処方は4日分。この場合は十二分に憶病になるべきである。
やろうとしていること、考えていることをお伝えすると、患者さまはそれを覚悟の上で承知してくれた。

著効である。

数日間の私の心配は、患者さまのお顔を見てスカッと晴れた。
服用した次の日から、明らかに蕁麻疹が軽くなったのだという。

しかも前に出した消風散よりも飲みやすく、かつ飲んだ後にスッと発疹が引く感覚さえあった。

やはり私の常識は、今回ばかりは間違えていたことになる。

多分、基礎知識としては正しい。
しかし少なくとも今回の場合、その知識が治療の邪魔をしていたのは確かだった。

生薬一味の妙。それを痛感する、貴重な経験だった。

そういえば患者さまには、確かに通ぜざる血の印象があった。

この生薬が必要であってもおかしくはない、という感覚。
もし月経痛などが明らかであれば、はじめの段階で選択肢の一つにあったかもしれない。

しかし月経痛は無かった。月経不順もPMSも、皮膚の乾燥感も爪の弱ささえもなかった。

それでも理血・養血が必要だった。

いや違う。

私が血薬だと考えていたものは、決して「血薬としてだけ定義して良いものではない」ということだった。

何事においても基礎は重要である。

治せるものを当たり前に治す、そのためには基礎が絶対に必要になる。

しかし学問としての基礎は、時として無力である。

基礎を捨て、思考を跳躍させる。
長く臨床に携わっていると、そういうことが必要な瞬間が往々としてある。

約2カ月の治療で蕁麻疹はほぼ完治した。

最後に二週間分の薬をお渡しし、
その後もし症状が出るようならご来局頂くようお伝えしておいた。

あれから約半年以上経つ今も、患者さまからのご連絡はない。
再発していないことに安心しつつ、治療済みの棚へとカルテをしまった。

後日、例の生薬を調べるべく、
私は江戸名医の本草書(薬物書)を開いた。

そして気付かされた。

私が基礎からの跳躍だと考えていたことは、彼らからしたら、それこそが基礎にしか過ぎなかった。

曰く「治血の薬と為すべからず」。
曰く「補血養血の薬と為すは抑々(そもそも)末(本質の枝葉)なり」。

全力で跳躍したつもりだった。

しかし着地したのは、名医の手のひらの上だった。



■病名別解説:「蕁麻疹・寒冷蕁麻疹

〇その他の参考症例:参考症例

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