〇漢方治療の実際 ~「漢方」と「中医学」との違い・前編~

2021年03月17日

漢方治療の実際

○漢方治療の実際
~「漢方」と「中医学」との違い・前編~

<目次>

1、中国に行って「漢方ください」は通じない。
■「漢方」の発祥
■「漢方」の衰退と断絶:伝承し続けた明治・大正・昭和の漢方家
■「漢方」の普及と復興:「方証相対」の立案
■すなわち「漢方」とは

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この前患者さまからご質問を頂きました。「漢方と、中医学って、何か違いがあるのですか?」と。

「漢方」と「中医学」。これらは同じもののようですが、実は別物です。両者ともに我が国日本で行われている伝統医学ではありますが、伝わってきた由来もその内容も、異なる側面を多分に含んでいます。

漢方薬を取り扱う医療機関では、当然その辺りのことを分かった上でこれらの用語を使い分けていると思います。しかしこれらの違いをちゃんと解説しているものがあまり見当たらないことに気が付きました。意外なことに、これらを混同して使っている解説もちらほら見受けられます。何か違いがあるの?と思われても、確かに当然のことかと思います。

そこで今回、漢方と中医学、両者にどのような違いがあるのかを詳しく解説していこうと思います。

この違いを理解することは大切なことだと思います。両者にはそれぞれ特徴があります。漢方なのか中医学なのか、それぞれの医療機関の特徴を反映していることになるからです。

しかしいざ説明しようとすると、少々難しいことに気が付きました。ちょっと込み入った内容、つまり「歴史」を紐解いていかなければならないからです。そこで少し長くなってしまいそうですが、両者の違いを説明するために、それぞれの成り立ちからお話していこうと思います。我が国で行われている伝統医学を知る上でも重要なことですので、少々お付き合いいただければ幸いです。

目次は以下の通りです。

1、中国に行って「漢方ください」は通じない。
2、「日本で行われている中医学」は「中国で行われている伝統医学」ではない。
3、「漢方」と「中医学」、どちらが良いのか。

それでは見ていきましょう。「漢方」と「中医学」との違い。まずは「漢方」についてです。

1、中国に行って「漢方ください」は通じない。

■「漢方」の発祥

我が国で行われている「漢方」は、その発端を中国に由来しています。これは何となく皆さんも知っていらっしゃると思います。医学だけでなく、多くの文化・芸術を中国から取り入れ、それを模倣してきた歴史的事実が我が国にはあります。

ですので本場である中国に行けば、本格的な漢方を体験できると考えられるかも知れません。しかし残念ながら、中国に行って「漢方ください」と言っても向こうでは通用しません。なぜならば、「漢方」は中国で行われている伝統医学ではないからです。

「漢方」は日本で生まれた伝統医学です。源流は中国にありますが、日本人が改良に改良を重ねた結果、形を変えて出来上がった医学が「漢方」です。

室町時代まではほぼ中国からの医学を模倣してきました。形を変えたのは江戸時代です。江戸太平三百有余年、その間に、日本人はそれまで自分たちが行っていた医学に大きなイノベーションを起こしました。

江戸時代はあらゆる文化が日本特有のものに花開いた時代です。鎖国(今では鎖国とはあまり言いませんが)によって他国からの貿易を国が統制した結果、日本人が日本人として美しいと思う芸術・自分たちに合った文化を追求したのが江戸時代です。

それは医学においても例外ではありませんでした。今まで自分たちたが行ってきた医学を日本人用に改良し続け、その結果「極めて実用的な医学」が作り出されました。

その医学は、後に名を「漢方」と名付けられます。そして、そう名付けられたのにはきっかけがあります。

江戸中期から後期にかけて、徐々に広がり始めた外国からの影響、つまり「蘭学(らんがく・オランダから伝来した学問)」の伝来に端を発しています。

自分たちが普通に行っていたことに名前がつけらえるのは、決まって他から別のものが入ってきた時です。

つまり当時「蘭方(らんぽう・西洋医学の前身)」が伝来し、それが広まっていくにつれて、今まで行っていた自国の医療に名前を付ける必要が出てきたのです。

そして付けられた名が「漢方」です。

つまり漢方とは「江戸時代に始まった日本固有の伝統医学を指す」というのが正しい解釈だと言えます。

江戸時代に始まった「漢方」は、そこから現代にいたるまで、我が国において脈々と受け継がれてきました。

ただし、それはとてつもない困難を伴う道のりでした。なぜならば、我が国において「漢方」は一度衰退の危機に瀕しているからです。

現在の我々が体験することの出来る漢方は、この衰退からの復興という波を経て、江戸時代からさらに形を変えた医学です。

すべての伝統医学に言えることですが、作られた時の状態のままずっと現代まで残っているものなど一つもありません。必ず各時代の影響を受け、その形を変えながら現在に至っています。

■「漢方」の衰退と断絶:伝承し続けた明治・大正・昭和の漢方家

我が国の医学として誕生した「漢方」は、「蘭方」の伝来以降、常に「洋学(西洋医学)」と比較されながらその歴史を経てきました。

比較の論点は「漢方と西洋医学、どちらが良い医学か」ということ。西洋医学が日本に浸透するごとに、漢方は常にその正当性を問われてきたのです。

科学的根拠が薄い。洋学から見た漢方は「曖昧な医学」でしかありませんでした。結果として漢方薬で改善したとしても、どこにどう効いているのかを科学的に証明できない以上、曖昧かつ危うい医学でしかない。洋学との理論闘争では、常にこの点を指摘され続けてきました。

確かに西洋医学による治療は、当時の医者たちが驚愕するほど合理的でした。その中で漢方は医療としての「正しさ」を疑問視され続け、徐々に衰退の道へと向かっていきます。

両者の理論闘争は「脚気戦争(かっけせんそう※)」などの逸話としても残っています。その際たとえ漢方のほうが有効であったとしても、「医療としては正しくない」と判断されていったのです。

そして明治政府は、ついに西洋医学中心の新しい教育制度を制定。それにより医師免許規則を「西洋医学を修めたものでなければ医業を行えない」という内容に改定しました。

これが決定打となります。そして、漢方はいよいよ断絶の危機へと追い込まれていくことになるのです。

しかし、「漢方」は我が国において完全に消滅することはありませんでした。

科学的根拠がない・草を飲むなんて信じられないという厳しい評価を受ける中、それでも漢方を伝承し続けた漢方家たちがいたからです。

江戸・明治の大家である山田業広(やまだなりひろ)浅田宗伯(あさだそうはく)は全国の漢方家に呼びかけ、漢方存続運動の活動母体となる「温知社」を設立しました。

当時衰退の一途をたどる中、それでも日本全国には名医が各地に散らばっていました。温知社はそういった名医たちを集めたオールスター集団であり、黒澤明監督の『七人の侍』よろしく政府に対して漢方医存続運動を展開しました。

温知社はその後、時流に勝てず解散。しかしその芽は潰れず、和田啓十郎(わだけいじゅうろう)が『医界之鉄椎(いかいのてっつい)』を、また昭和漢方家の師・湯本求真(ゆもときゅうしん)が『皇漢医学(こうかんいがく)』を出版します。

また後の一貫堂医学の創始者である森道伯(もりどうはく)の活躍や、一部の医師や薬剤師、薬種商などの尽力により、漢方はなんとか我が国に生き残りの道を繋げていったのです。

■「漢方」の普及と復興:「方証相対」の立案

昭和初期、名医たちによりその存在を繋ぎとめてはいましたが、当時の漢方は決して日の目を見るものではありませんでした。

今でこそ漢方は広く国民に認知される医学となりましたが、当時の日本は、ほとんどの方が漢方という名さえも知らないという時代だったのです。

その風潮を一転させるべく活躍したのが、明治時代に漢方存続をかけて死力を尽くした名医たちの弟子、漢方復興の意を継ぐ者たちです。

彼らが残した書籍の多くは今でも漢方治療の教科書的存在になっています。龍野一雄(たつのかずお)・大塚敬節(おおつかけいせつ)・奥田謙藏(おくだけんぞう)・矢数道明(やかずどうめい)・細野史郎(ほそのしろう)など。その他多くの漢方家たち、昭和の大家と呼ばれる名医たちの活躍により、漢方は衰退から復興・普及というV字回復を成し遂げました。

では昭和の大家たちは、どのようにして漢方の普及を成功させたのでしょうか。

その方法は、ある意味でド直球の正攻法。とにかく「効果的である」ということを全面に打ち出していったのです。

理屈は置いといてとにかく「効くのだ」ということ。時に「西洋医学を凌駕するほどの効果を出すことがある」ということを、数々の論文や書籍で地道に広めていったのです。

ただし、それを証明するためには漢方を使ったことのない、漢方を知らない医者たちにも漢方薬を使ってもらわなければなりません。

そこで漢方薬を簡単に使ってもらえるよう、「証(しょう)」という概念を打ち立てました。

「証」とはある漢方薬を使うための「証拠」という意味の言葉です。例えば「風邪のひきはじめで、寒気と悪寒が同時に起こる時期で、体格が良く、肩こりがある者ならば」それは「葛根湯(かっこんとう)」を使うべき「証(証拠)」である、したがって葛根湯を出すことが正しい。こう説明していったのです。

この方剤(漢方薬)と証(証拠となる症状・症候)が相対するという考え方を「方証相対(ほうしょうそうたい)」といいます。昭和の大家たちはこの概念を『傷寒論(しょうかんろん)』という古典を根拠に持ち出し、それによって簡易的な漢方薬運用方法を広めていきました。

これが功を奏し、漢方薬は急速に普及していきます。途中、漢方薬が保険に適用されたことも、広まるための大きなきかっけになりました。

そして今では医者の8割が漢方薬を使うという時代になりました。江戸時代に作り上げられた我が国の伝統医学「漢方」は、「方証相対」という形を得て、現在広く認知される我が国の伝統医学となったのです。

■すなわち「漢方」とは

さてここで、漢方とは何かをおさらいしてみましょう。

まず最初に漢方とは、「中国の医学に由来するも、江戸時代に日本人用に大きく改良された(日本人によって作られた)伝統医学を指す」、ということです。

また現在我々が経験している漢方の多くは、江戸時代に作られた漢方とは別物だということ。つまり衰退から復興・普及を経て形を変えたものが、今現在私達が経験することのできる漢方です。

その特徴としては「方証相対」という簡易的運用を軸とし、さらに『傷寒論』を軸とすることからこの古典で解説されている処方を多く使うという傾向があります。傷寒論の処方とは、基本的に非常にシンプルな処方です。葛根湯や麻黄湯、小青竜湯や小建中湯などがその代表だといえます。

またこの「漢方」は、後に解説する「中医学」と区別するために「日本漢方」と呼ばれる場合もあります。

「当医療機関では漢方(もしくは日本漢方)を行っています」という説明がある場合には、それは大塚や奥田などの流派を継ぐ者です、という意味かもしれません。ただし今では「漢方」という言葉自体が歴史を無視して一人歩きしているケースも見受けられます。そのためあくまで目安として、正確に言うとこうですよという所を知っておいていただければと思います。

さて、今回紹介したいのは、「漢方」と「中医学」との違いです。

以上の説明で、おおよそ「漢方」とはこんな意味なんだなということは知っていただけたと思います。

そこで次は「中医学」とは何かを解説していきます。「日本で行われている中医学」、それはイコール「中国で行わている伝統医学」ではない。このあたりを理解すると、漢方と中医学との違いも自ずと分かるようになってきます。



後編に続く・・・

▶コラムページ:〇漢方治療の実際

※「脚気戦争」:当時流行っていた「脚気(かっけ)」という病に対して洋学と漢方どちらの方が効果的かを競った逸話。結果としては漢方の方が多くの脚気患者を救ったと言われている。

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