処方の先に見えるもの

2023年04月05日

漢方坂本コラム

最近、テレビをチラッと見た時に、

俳優の堤真一さんが出ていて、ちょっと画面に釘付けになりました。

特段、堤さんが好きなわけではなかったのですが、

その時テレビでおっしゃっていることが、少し引き込まれる内容だったのです。

堤さんは、あるイギリス人演出家から演技のキモを教わった。

ご自身の苦い経験を通して、とても勉強になったとおっしゃっていました。

その演出家、デヴィッド・ルヴォー氏は、

堤さんに、こう伝えたそうです。

お客さんは、俳優ではなく、役と役との関係性を観にきている。

舞台で起きることを、観にきている。

だから、セリフは自分の役を説明する道具ではなく、

あくまで、壇上の同じ役者、その相手の心を動かすために使いなさい、と。

俳優というのは、与えられたセリフで自分を表現する、

そういうものだと、私は思っていました。

今まで映画を見ても、ドラマや演劇を見ても、

俳優という職業は、自分を表現する仕事なのだと思っていました。

しかし、俳優が言うセリフは、相手のためにあるのだと。

壇上に立つ同じ俳優、その相手に伝えるためにあるのだと。

だからセリフは、相手の心を動かすためにある。

セリフによって動く、俳優同士の心と感情の機微、

演技を見ていると、私は確かにそこに引き込まれます。

演技の奥深さ、そして演技を通して何故人が感動するのかが、少しわかった気がしました。

芸術は必ずしも、自分表現ではないのです。

こう見せようとか、ああしてやろうとか、

自分のやろうとしていることを披露するのではなく、

相手のために、相手に伝えるために、

自分の心の内を、表現して形にすること。

様々なことに、通じることだと思います。

特に私にとっては、「薬を出す」ということに、通じるものを感じます。

名方と呼ばれる漢方処方には、

創作者の心の内が、にじみ出るものです。

そのにじみ出ているものを感じると、

確かにどうしてやろうとか、体にこう効かせてやろうとか、

そういうものが、処方の本質ではない気がするのです。

もっと自然に、もっと相手のために、

相手が欲しているものを、自然とつかみ取って形にしているような。

温薬が入っているから体を温めるとか、

気剤が入っているから、気を動かすとか、

そうやって名方を定義してはいけないと思うのです。

処方は、単に相手が欲していることを、ただ形にしただけ。

そうであるならば、処方を通して私たちが見るべきものは、

その薬の薬効ではなく、創作者が見ていた患者さまであるべきです。

主役は自分ではなく、さらに自分が出す処方でもない。

あくまで相手のためにあるもの。

俳優にとってのセリフも、臨床家にとっての薬も、

きっと同じだと思います。

相手が求めているものを素直につかみ取って、

それを形にしてみたら、こうなりましたと。

そんな自然な処方の運用が、果たして自分に出来ているのだろうか。

そんな自問をしたくなるような、テレビ番組でした。

言葉の本質を、知ったような気がします。

それは薬の本質に、とても近いような気がします。

どんな患者さまでも、たとえ本人が病と闘う気持ちを失っていたとしても、

治ろうとしていない体などありません。

薬は、その治ろうとしている体が、

欲しているものを、救わんと欲することを、

ただ形にするだけ。

漢方家にとっての薬は、

患者さまに伝えるべき言葉、そのものです。



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