最近、テレビをチラッと見た時に、
俳優の堤真一さんが出ていて、ちょっと画面に釘付けになりました。
特段、堤さんが好きなわけではなかったのですが、
その時テレビでおっしゃっていることが、少し引き込まれる内容だったのです。
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堤さんは、あるイギリス人演出家から演技のキモを教わった。
ご自身の苦い経験を通して、とても勉強になったとおっしゃっていました。
その演出家、デヴィッド・ルヴォー氏は、
堤さんに、こう伝えたそうです。
お客さんは、俳優ではなく、役と役との関係性を観にきている。
舞台で起きることを、観にきている。
だから、セリフは自分の役を説明する道具ではなく、
あくまで、壇上の同じ役者、その相手の心を動かすために使いなさい、と。
俳優というのは、与えられたセリフで自分を表現する、
そういうものだと、私は思っていました。
今まで映画を見ても、ドラマや演劇を見ても、
俳優という職業は、自分を表現する仕事なのだと思っていました。
しかし、俳優が言うセリフは、相手のためにあるのだと。
壇上に立つ同じ俳優、その相手に伝えるためにあるのだと。
だからセリフは、相手の心を動かすためにある。
セリフによって動く、俳優同士の心と感情の機微、
演技を見ていると、私は確かにそこに引き込まれます。
演技の奥深さ、そして演技を通して何故人が感動するのかが、少しわかった気がしました。
芸術は必ずしも、自分表現ではないのです。
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こう見せようとか、ああしてやろうとか、
自分のやろうとしていることを披露するのではなく、
相手のために、相手に伝えるために、
自分の心の内を、表現して形にすること。
様々なことに、通じることだと思います。
特に私にとっては、「薬を出す」ということに、通じるものを感じます。
名方と呼ばれる漢方処方には、
創作者の心の内が、にじみ出るものです。
そのにじみ出ているものを感じると、
確かにどうしてやろうとか、体にこう効かせてやろうとか、
そういうものが、処方の本質ではない気がするのです。
もっと自然に、もっと相手のために、
相手が欲しているものを、自然とつかみ取って形にしているような。
温薬が入っているから体を温めるとか、
気剤が入っているから、気を動かすとか、
そうやって名方を定義してはいけないと思うのです。
処方は、単に相手が欲していることを、ただ形にしただけ。
そうであるならば、処方を通して私たちが見るべきものは、
その薬の薬効ではなく、創作者が見ていた患者さまであるべきです。
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主役は自分ではなく、さらに自分が出す処方でもない。
あくまで相手のためにあるもの。
俳優にとってのセリフも、臨床家にとっての薬も、
きっと同じだと思います。
相手が求めているものを素直につかみ取って、
それを形にしてみたら、こうなりましたと。
そんな自然な処方の運用が、果たして自分に出来ているのだろうか。
そんな自問をしたくなるような、テレビ番組でした。
言葉の本質を、知ったような気がします。
それは薬の本質に、とても近いような気がします。
どんな患者さまでも、たとえ本人が病と闘う気持ちを失っていたとしても、
治ろうとしていない体などありません。
薬は、その治ろうとしている体が、
欲しているものを、救わんと欲することを、
ただ形にするだけ。
漢方家にとっての薬は、
患者さまに伝えるべき言葉、そのものです。
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