漢方治療日記

消えていく治療

毎日作るのに手間のかかる煎じ薬。はじめは大変だし億劫だと思うのですが、自然と当たり前になっている方が多い。そして症状が改善する時もそう。知らない間に自然に消えていく。もっと自然に、もっと当たり前に。薬が無くても大丈夫、先生がいなくても大丈夫となるように。自然と消えていけるような、そんな治療が望ましい。

難しい時代

漢方薬は広く使われるようになりましたが、漢方の認知と実状に、正直ちょっと違和感があります。私は漢方は流行る必要はないと思っています。医療の中心は西洋医学であるべきで、その恩恵から漏れてしまった方への受け皿という位置が、漢方の正しい居場所だと思っています。

後者は名医

患者さまの諦めない気持ちと、先生方との治療経験こそが、次にお会いする先生を名医にします。それが「後者が名医」という言葉の真の意味合いだと、私は思います。今まで患者さまと伴に頑張られていた先生がいらっしゃっるからこそ、その経験が次の先生への大きなヒントとなって、より正確な治療を導くことができます。

探るべき可能性

昨日、またお一人、当薬局での治療を卒業されました。起立性調節障害にて体調を崩されていた男の子。頭痛などの諸症状がほぼ消失し、朝の起床にも全く問題が無くなりました。西洋医学にて治療が難しくても、この日本には鍼灸や漢方など、様々な病の捉え方があります。心の病と指摘する前に、探るべき可能性は沢山あると思うのです。

養生への感謝

養生と一口に言っても、睡眠なのか、運動なのか、食事なのか、各患者さまによって重視するべきものが違います。病を見極めた上で、患者さまに合った養生を探し出していく。的確な養生を探し出すということが、処方を決定するのと同じくらい、改善へと向かうためには大切だと、経験上分かってきたからです。

お会いすることの大切さ

漢方家は、東洋医学理論を駆使して人体を把握しているわけでは決してない。そういう理論や理屈だけでは人は把握できない。もっと感覚的なものを拠り所にして、人を把握しています。名医と呼ばれる先生方には、このような感覚の鋭さが必ず備わっています。そしてこの感覚の大切さもまた、良く知っておられます。

漢方と伝統

漢方が伝統として生き残れた理由、それは、その時代時代において、ちゃんと実質的に貢献できたからです。伝統的な生業を行っている方々には、大きく2つの視点があると思います。一つは、歴史から本質を学ぶということ。そしてもう一つは、今現在と未来という状況の中でその本質を如何に活用するかということです。

「漢方」と「漢方薬」は違う

いくら生薬を配合している商品でも、薬として認められなければ「漢方薬」とは言えません。生薬は誰にでも安全に、高いパフォーマンスをもって使用することが出来るという側面がある一方、病への対応では生薬が持つ薬能を最大限に発揮する必要がある。長い歴史の中でそのための手法を磨き上げた結果として生まれのが「漢方薬」です。

克服

年を重ねるにつれて、 へー自分ってこんな事も出来るようになったじゃん! という発見って結構あるものですよね。 私にもあり...

古人に問う

自分では今やっている生業が、「伝統的である」という自覚が強くあって、そうすると、今私がやっていることを昔の人たちが見たら、いったいどう評価するのだろうと、考えずにはいられません。浅田宗伯が見たら、尾台榕堂が見たら、呉鞠通が見たら、李東垣が見たら、張仲景が見たら・・・。