病名別解説 序
一.
東洋医学は西洋医学の視点から見れば非常に曖昧なものに映るはずです。東洋医学を構成する「陰」「陽」「気・血・水」といった概念や、漢方薬の薬能一つとっても、西洋医学的な評価・基準をもってすれば、根拠の薄い、非常に曖昧なものです。漢方家はこれに、「曖昧なものではなく、きちんとした理論がある。歴史がそれを証明している。」と答えます。
浅学菲才な私ですが、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、この言葉には、漢方家の見栄が隠されていると思うのです。
漢方の歴史は、常に曖昧さとの闘いでした。血液検査もない、画像診断もない、人体に何が起こっているのかを知るすべが、今と比べて極端に少ない時代。そんな時代の中で、漢方家たちは必至に「理(理論)」を求めてきました。その作業は並大抵のことではありませんでした。中には「理」を捨て、効果・実践のみを言う人々もいました。また「理」に傾倒するあまり、治療実績を伴えない人々もいました。
現代では多くの漢方解説書があり、私たちは漢方の理論がわかったような気にさせてもらえます。またすばらしい師匠に巡り会えると、師匠が作り上げた「理」を、さも完成された「理」のように感じます。しかし、それをもって「理論がある」などと自らを納得させるのは、真摯に漢方と向き合った先人や師匠に対して、失礼だと思うのです。
漢方家は「理」があると信じています。そして「理」が何であるかを求め続けています。こうやって継続してきた道が、漢方だと思うのです。
二.
では、漢方家はなぜ「理」があると信じることができるのでしょうか。それは、実際に何千年も生き残ってきた処方があるからではないでしょうか。
西洋医学という医学界にとって革命とも呼べるような、すばらしい医学が盛んになった今でさえ、漢方薬は時にその医学を上回る成績を残すことがあります。
そのような漢方処方を目の前にした時、この処方はいったいどうやって作られたのか、なぜこんな薬を作ることができたのかと、考えざるを得ません。
偶然作ることができたと片付けるのは、あまりに軽率な気がします。「理」があるのではないか・・・そう思うことは、不自然なことでしょうか。
漢方家は現代においてもなお、未だ解明されていない「理」を求めています。
三.
どのように「理」を求めていくのか。そのやり方・考え方は決して一つではありません。漢方を担う者一人一人が、その手法を見つけ出さなければならないからです。
漢方の理論を求める作業を「学」とするなら、実際に病を改善する手法は「術」です。
「学」と「術」は両者ともに疎かにできません。「術」の無い「学」では病を治せません。「学」の無い「術」には再現性がありません。これらは常に一体となって求めていかなければなりません。
そして「学」は常に「術」をもとに成り立っていかなければなりません。病が改善された、もしくはこのやり方では病が治らなかった、こういう実践が積み重なって「術」となり、そういう実証性の高い「術」から生み出されるからこそ、実証性の高い「学」が生まれます。実際に病を治せない理論は、絵に描いた餅でしかありません。
まず病を実際に改善へと導くこと、それによって臨床的に正しい「術」を持つこと。すべての始まりはここからです。そしてそれをもとに「理」をひも解こうとするべきです。
四.
西洋医学が主流となった現在において、昔と比べて非常に多くの情報がわかるようになりました。解明された人体の生理や病態認識は全医療における宝です。実際の漢方処方運用においても、これらの西洋医学的情報を取り入れることが多くなってきました。
今後は漢方を担う者も、西洋医学を十分に理解していることが必須だと思います。ただし、その上で私は感じます。西洋医学的な視点から漢方を理解しようとすればするほど、漢方の本質的な「理」からは離れます。
漢方薬は西洋医学がない時代に生まれました。そういう時代において、ある見方をもって人間を知り、病を知り、処方を作り出しました。失敗を繰り返しながら「術」を知り、「理」を求め、処方という形を生み出します。そこには西洋医学が入る余地はまったくなく、あったのは、創作者の独創的かつ正しい「想像力」です。そういう純度の高い想像力が人や病の見方を作りあげ、それが「理」となったのです。
この創作者の「理」をつかむことは非常に困難な作業です。なぜなら先にも述べた通り、漢方の歴史の中で未だに誰も掴みきれていないからです。しかしこの創作者の「理」を懸命につかもうとする努力は、自らの想像力を鍛えます。その想像力は自らの「術」をもとにすることで、さらに磨かれ、曖昧さを排除し、正確な発想を導きます。こうやって漢方の「理」が自らの中に培われていきます。
漢方の「理」は、的確な想像性によって生み出されたものです。情報が増え、合理的な解釈が可能になったことは、大変素晴らしいことですが、それに甘んじて想像力を失えば、漢方の「理」からは離れます。
これからの時代、漢方は西洋医学と共存していく必要があります。西洋医学と漢方との良いところを共に両立させていかなければなりません。ただしそうしていくためには、西洋医学的知識をひとまず横に置いた上で、想像力をもって漢方を捉えることの重要性を理解していなければなりません。そうでなければ、漢方の良さを理解することはできないと思うのです。
未だ西洋医学のない時代の先人たちの所業は、現代の人から見れば、確かに時代遅れに感じられます。漢方の古典と言われる書籍の数々は、解説が乏しく、思想的です。理解することが困難で、とても臨床に応用することができない。漢方の歴史を知り、素養と教養を深め、古典に何度も目を通したとしても、そう思ってしまうほどに、漢方の「理」は難解です。
ただしそう感じるのは、我々の想像力が乏しいからです。情報が少ないことを時代遅れというのは簡単です。しかしだからこそ、我々は先人たちが発揮した想像力に敬意を払わなければなりません。
東洋思想では人を「小宇宙」と捉えます。東洋医学もそれにならい、人と世界とは順応し循環していると考えます。漢方家であれば、口を揃えて解説する大原則です。では、この発想を実際の薬方決定に生かしている人は、現代に何人いるのでしょうか。我々は漢方の「理」に基づいた想像力をもって、本当に病をみれているのでしょうか。
古典を解読する努力を続けていかなければなりません。情報が増えれば、おのずと想像の余地は失われます。だからこそ今我々に必要なのは、正しい想像力なのではないでしょうか。
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これより以下、各々の病や症状について東洋医学的な捉え方と適応しやすい漢方処方とをご紹介いたします。なるべく実際的な漢方治療をご紹介するため、本項を設けておりますが、あくまで未熟な私の知識と経験とを記しているに過ぎません。漢方治療にご興味のある方にとって、一つの見解としてご参考にしていただければ幸いです。