昭和後期の大家である山本巌先生は、数々の名著を残された漢方界の巨頭の一人である。実際にお会いしたことはないが、臨床の腕は相当のものだったと想像する。曖昧な理論を排除し、臨床に則した処方運用の規範を構築された。名著から伺えるその姿勢は、凄まじいとさえ感じるものがある。後世の漢方家にも多大なる影響を与えた。私もある時期、山本先生の著書を貪るように読みふけったことがある。
あれは確か私が山梨に帰り臨床を始めた頃だった思う。山本先生の著書の中の一節から、今までの自分を一変させる薫陶を受けた。臨床を経験し、座学と実学とのはざまで頭を悩ませていた時だった。人にはそれぞれ人生を変える書物があるというが、私にとってはその一節が正にそれだった。
古方・後世・中医学と固執することなく東洋医学を修められた山本先生にも、大きな影響を受けた師匠がいた。中島随象先生。全容を把握し難い漢方界の中でも、ひときわベールに包まれた巨匠である。中島先生が行なっていた随象流一貫堂医学は、山本先生がそれまで勉強されてきた東洋医学の常識を覆すものだった。何故それで治るのか、診察の仕方も、使う薬方も、そう感じてしまうほどに常軌を逸するものだったようだ。
「名匠は規矩(きく)を教えて準縄(じゅんじょう)を教えず」。中島随象先生はお弟子さんたちに、自身が為されていることの詳細は決して教えなかったという。手本は示すが後は見てとれ、そういう姿勢を貫いたようである。山本先生はそこに中島先生の慈愛を見出されていた。「先生が門弟を教育指導されるのは、非常に厳しい。先生の慈愛は、ともすればほしがる準縄を決して与えようとはされないからである。詳細に教育すればある程度成長は早い。だがこの習慣がつけば、与えられるものを受けるが、自らが開発しようとはしなくなる。新しい問題に出会ったとき、これを克服していける後継者を作るのでなければ、それまでどまりだ。師を越えて発展することはできない。」そして後に、数々の問題を克服し解答を示し続けたのが山本先生だった。
中島先生の姿勢、そして山本先生が何故そこから強い感銘を受けたのか。それを先生自身がある中国の物語に例えた一節がある。臨床家とは何か、座学と実学の違いとは何か、多くのことを示唆する物語である。かなり長くなるが、この場を借りて是非紹介したいと思う。漢方を志す方々に、当時の自分のように悩まれている方々に、その道を示す一助になればと、願いながら綴ってみたい。
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先生(中島随象先生)は慈愛のこもったやさしい眼で弟子をいたわりはげましながら、しかし教育(しつけ)は実に厳しい。
何でも見て取れというような構えで、決して教えようとはしないのである。
「先生、そんなところを診て何がわかるんですか」
「いや、患者は色々と診てやると喜ぶもんじゃ」と。
昔、中学生のとき国語の教科書で国枝史郎氏の『岷山の隠士(みんざんのいんし)』を習った。(「大衆文芸」第1巻・第4号(大正15年4月)掲載の文章である。)
「いや彼は隴西の産だ」
「いや彼は蜀の産だ」
「とんでもないことで、巴蜀の産だよ」
「冗談を云うな山東の産を」
「李広の後裔だということだね」
「涼武昭王暠の末だよ」
ーーー青蓮居士謫仙人(せいれんこじたくせんにん)、李太白の素性なるものは、はっきり解っていないらしい。
金持ちが死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
偉人や金持ちになることも、鳥渡どうも考えものらしい。
李白十歳の初秋であった。県令の下に小奴となった。
或る日牛を追って堂前を通った。
県令の夫人が欄干に倚り、四方の景色を眺めていた。
穢らわしい子供が、穢らわしい牛を臆面も無く追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
「無作法ではいか、外をお廻わり」
すると李白は声に応じて賦した。
「素面欄鉤ニ倚リ、嬌声外頭ニ出ヅ、若シ是女織ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン」
これに驚いたのは夫人で無くて、その良人の県令であった。
早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍らせた。
或る夜素晴らしい山火事があった。
「野火ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ」
県令は苦心して此処まで作った。後を附けることが出来なかった。
「おい、お前附けてみろ」
県令は李白へこう云った。
十歳の李白は声に応じて云った。
「焰ハ紅白ニ随ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐ツテ飛ブ」
県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧馨児であった。
田舎役人の県知事などが、李白に敵う可き道理が無かった。
或る日美人の溺死人があった。
で、県令は苦吟した。
「二八誰ガ家ノ女、飄トシテ来リ岸蘆ニ倚ル、鳥ハ眉上ノ翠ヲ窺ヒ、魚ハ口傍ノ朱ヲ弄ス」
すると李白が後を継いだ。
「緑髪ハ波ニ随ツテ散リ、紅顔ハ浪ヲ逐ツテ無シ、何ニ因ツテ伍相ニ逢フ、応ニ是秋胡ヲ想フベシ」
また県令は嫌な顔をした。
李白は危険を感じ、事を設けて仕を辞した。
詩的小人というものは、俗物よりも嫉妬深いもので、それが嵩ずると偉いことをする。
李白が逃げたのは利口であった。
剣を好み諸侯を干して奇書を読み賦を作る。ーーー十五歳迄の彼の生活は、まずザッとこんなものであった。
年二十性倜儻、縦横の術を喜び任侠を事とす。ーーーこれが其の時代の彼であった。
財を軽んじ施を重んじ、産業を事とせず豪嘯す。ーーーこんなようにも記されてある。
或る日喧嘩をして数人を切った。
土地にいることが出来なかった。
この頃東巌子という仙人が、岷山の南に隠棲していた。
で、李白は其処へ走った。
聖フランシスは野禽を相手に説教をしたということであるが、東巌子も小鳥に説教した。彼は道教の道士であった。
彼が山中を彷徨っていると、数百の小鳥が集まってきた。頭に止まり肩に止まり、手に止まり指先へ止まった。そうして盛んに啼き立てた。それへ説教するのであった。
李白は其処へかくまわれることになった。
或る日李白が不思議そうに訊いた。
「小鳥に説教が解りましょうか?」
「莫迦なことを云うな、解るものか。あんなに無暗に啼き立てられては、第一声が通りゃあしない」
「何故集まって来るのでしょう?」
「俺が毎日餌をやるからさ。小鳥にもてるのもいいけれど、糞を掛けられるのは閉口だ」
一度彼が外出すると、彼の道服は鳥の糞で、穢らしい飛白を織るのであった。
「一体道教の目的は、何処にあるのでございましょう?」
或る時李白がこう訊いた。
「つまり何んだ、幸福さ」
「幸福を得る方法は?」
「長命することと金を溜めることさ」
洵にあっさりした答えであった。
「何うしたら金が溜まりましょう?」
「働いて溜めるより為方が無い」
「その癖先生はお見受けする所、ちっとも働かないじゃありませんか」
「うん、どうやらそんな格好だな」
「働かないで溜める方法は?」
「よく此の次までに考えて置こう」
一向張り合いのない挨拶であった。
「何うしたら長命が出来ましょう」
「色々方法があるらしい」
「それをお教え下さいませんか」
「俺には解っていないのだよ」
「物の本で読みました所、内丹説、外丹説、いろいろあるようでございますね。枹木子などを読みますと」
「ほほう、それではお前の方が学者だ。ひとつ俺に教えてくれ」
李白はこれには閉口して了った。
或る日東巌子が李白へ云った。
「天とは一体どんなものだろう?」
「ははあ此の俺を験す気だな」すぐに李白はこう思った。「道教の方で申しますと、天は百神の君だそうで、上帝、天帝などとも、名付けるそうでございますが、意味は同じだと存じます。天は唯一絶対ですが、その功用は水火木金土、その気候は春夏秋冬、日月星辰を引き連れて、風師雨師を支配するものと、私はこんなように承わって居ります」
「ふうん、大変むずかしいんだな。俺にはそんなように思われないよ。色が蒼くて真丸で、その端が地の下へ垂れ下がっている、こんなようにしか思われないがな」
これには李白もギャフンと参った。
「地に就いては何う思うな?」
これは浮雲いと思い乍らも、真面目に答えざるを得なかった。
「地は万物の母であって、人畜魚虫、山川草木、これに産れ是れに死し、王者の最も尊敬するもの、冬至の日に以って方沢に祭ると、こう書物で読みましたが」
「お前の云うことはむずかしいなあ、俺にはそんなようには見えないよ。変な色の、変に凹凸した、穢らわしいものにしか見えないがね」
これにも李白は一言もなかった。
「お前は人の性を何う思うね?」
「はい、孔子に由る時は、『人之性直(ひとのせいちょく)、罔之生也(これをくらますのはせいなり)、幸而免(さいわいにまぬかれよ)』こうあったように思われます。併し孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱えました。だが告子は性可能説を唱え、又楊雄、韓愈等は、混合説を唱えましたそうで」
「だが其奴は他人の説で、お前の説ではないじゃあないか」
「あっさようでございましたね」
「で、お前は何う思うのだ?」
「さあ、私には解りません」
「解るように考えるがいい」
「あの、先生は何う思われますので?」
「俺か、俺はな、そんなつまらない事は、考えない方が可いと思うのさ。形而上学的思弁といって、浮世を小うるさくするものだからな」
これには李白は何んとなく、教えられたような気持ちがした。
「不味い物ばかり食っていると、肉放れがして痩せて了う。美味物を食え美味物を」
こう口では云い乍ら、稗だの粟だの黍だのを、東巌子は平気で食うのであった。
「綺麗な衣装を着るがいい。そうでないと他人に馬鹿にされる」
こう云い乍ら東巌子は、一年を通してたった一枚の、穢ない道服を着通すのであった。
「出世をしろよ、出生をしろよ、いい主人を目付けてな」
こう云い乍ら東巌子は、山から出ようとはしないのであった。
彼は言行不一致であった。
それが却って偉かった。
彼は盛んに逆理を用いた。
李白は次第に感化された。
倜儻不羈の精神が、軽妙洒脱の精神に変わった。
或る日突然東巌子が云った。
「お前は山川を何う思うな?」
「山は土が盛り上がったもの、川は水の流れるもの、私にはこんなように思われます」
「さあさあ、お前は卒業した、山を出て、世の中へ行くがいい」
ーーーで、翌日岷山をでた。
(「THE KAMPO」昭和59年11月1日発行「特集 一貫堂医学を探る」より抜粋)
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陰陽、気血。五行・六経。東洋医学は様々な美しい言葉で彩られている。
学問の深みには或る種の美しさがある。だから学べば学ぶ程に、それに酔いしれることもできる。
ただ医学は実学である。目の前にある事がすべて、そこでは美醜さえ入る隙間はない。
その考え方こそが、本当の審美を培う。この物語は今でも尚私自身の訓戒として、心に刻まれている。
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