以前、「漢方のデータ化」というものが盛んに行われていた時期があった。
富山医科薬科大学だったかな。間違えていたらごめなんなさい。
「気虚」や「血虚」など、漢方特有の尺度をデータ化するという試みだったと記憶している。
データ化することの目的は、東洋医学的な病態解析に客観性を持たせるためだ。
100人の治療者がいたら、100人が同じように病態を解析できるようになる。
素晴らしい試みだったが、今はもうあまり言われなくなった。
データ化の試みは、あの後どうなってしまったんだろう。最近ふと思い出しました。
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白状すると、
漢方家は、東洋医学理論を駆使して人体を把握しているわけでは決してない。
そういう理論や理屈だけでは人は把握できない。
もっと感覚的なものを拠り所にして、人を把握しています。
「この方のこの感じ、前にご相談を受けたあの方に似ている」とか
「昔、〇〇湯で治ったあの人、あの人の不安定さと方向性が一緒っぽい」とか
少なからずそういう感覚的なものを通して病を把握し、治療しています。
なんて曖昧なやり方なんだと、驚かれそうだけれども。
ただしこの感覚は、経験を経る毎に、ものすごい武器になります。
まず治療までの道筋に無駄がなくなる。つまり効き目が早い。
そして何よりも再現性が高まる。あーだこーだ言う前に、バチンと適応処方を導き出せるようになります。
名医と呼ばれる先生方には、このような感覚の鋭さが必ず備わっています。
そしてこの感覚の大切さもまた、良く知っておられます。
ある先生曰く、「患者さんを見て、処方を出すのに5分迷ったら、もう効かない」
ある先生曰く、「話だけ聞いても分からないよ。会えば一発だけどね」
理論・理屈を言うことを、極端に嫌う先生さえいらっしゃる。
これらは皆、感覚的に把握するということが如何に大切かを物語っています。
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漢方のデータ化。
もしこの感覚さえもデータ化できるようになったら。
そしたらすごいことだと、思っていたのだけれども・・・。
人はデータ化できない。
だからこそ、お会いすることが大切なのです。