こんな話があります。
ある実験のお話です。
お坊さんと一般人との、差を知ろうとした実験。
両者にゴーン・ゴーンという鐘の音を聞かせ続け、
その脳波を調べるという実験です。
同じ音を、一定のリズムで、
長い時間、聞かせ続けます。
脳波はその音に反応し、上下を繰り返しますが、
お坊さんと普通の人とで、どう違いが出るのでしょうか。
・
まず普通の人は、
鐘の音を聞かせると、最初に大きく脳波が動きます。
しかし徐々に鐘の音に慣れてくる。
繰り返し聞かせ続けると、徐々に脳波の揺れが少なくなっていきます。
完全に無くなることはありません。しかしどんどん小さくなっていきます。
これが普通の反応だとすると、
お坊さんでは、脳波はどう動くのでしょうか。
悟りを開いたお坊さんであれば、
鐘の音ごときでは、脳波は動じないのかも知れません。
また感覚が研ぎ澄まされたお坊さんであれば、
脳波は逆に、聞かせ続けるたびに、どんどん大きくなるのかも知れません。
しかし、そうではありません。
結果はこうです。
一回目の音に反応する脳波の強さは、一般人と同じ。
しかし、慣れることがない。
聞かせ続けていても、一回目の脳波をまったく変えずに、
ずっと同じ強さで揺れ続けるのだそうです。
・
「悟り」とは何か、
それを考えさせられる実験です。
慣れない心。常に安定した心とは、
変わることのない感動を、受け続けれられる心持ちのことを言うのかも知れません。
人は他を見て影響を受けると、
当然自分の中に変化を感じます。
良い変化も、悪い変化もある。
ただし、必ず慣れる。そして、もっと違う変化をと、どんどん新しい刺激を求めたくなります。
新しい刺激で変わり続ける心。
そして、人はどんどん変化を繰り返していきます。
しかし、たとえ変化したとしても、変わらない何かが必ずあって、
その変えようと思っても変わらない何かが、
人の本質に近いものなのではないでしょうか。
新しい刺激によって変化するということは、
その変わらない何かに、気が付かなくなってしまうことなのかも知れません。
さまざまな情報に触れているうちに、本来当たり前のように知っていることに飽きてくる。
そうやって飽きてしまえば、それは自分にとって、大切なものではなくなっていきます。
しかし、その変わらない何かこそが、人の本質であり、答えなのだとしたら、
そこに気付き、大切に出来ることが、
「悟り」という境地なのかも知れません。
・
漢方治療に携わっていると、
この感覚が、しばしば大切なのだろうなと感じることがあります。
「悟り」などという大げさなものでは決してありませんが、
慣れずに観れるかどうか、
それが、大切なんだと感じる瞬間があるのです。
例えば勉強すればするほど、多くのものが見えた気になります。
そして新しい知識を入れる一方で、本当に大切な知識を見失うことがあります。
また患者さまを治そう治そうと、意気込む時もそうです。
患者さまから多くの情報を得れば得るほど、情報の波にのまれてしまうことがあります。
本当に大切なのは、いつだって「当たり前のこと」。
患者さま自身も、当たり前過ぎて気が付かなかったこと。
その当たり前を、二人で見つけていくことが、
上手な治療を導く最大のコツだと、私は感じます。
・
思うに、人は生きているだけで、すでに完全体です。
物を食べ、空気を吸い、汗をかいて、排泄をする。
その当たり前のことが出来るだけで、人は人として成り立っています。
地球や他の生き物からすれば、人はそれだけで十分に役に立っています。
しかし、それだけでは人は満足しません。
新しい文化や文明、常に新しい何かを探して感動を求めています。
本当は、自分の体にもともと備わるものこそが、
何物にも代えがたい、感動するべきものなのに。
当たり前のことに、気が付けるかどうか。
そして、それを大切に思えるのかどうかが、
どうやら治療の本旨であると。
「悟り」の実験を知った時、
私は、そんなことを感じました。
・
・
・