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ファッションは色あせても、スタイルは永遠のものだ。
-イヴ・サン=ローラン-
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先日、久しぶりに師匠と電話をした。
その際、ある皮膚病の話になった。
師匠曰く、その病に関しては、私の方が治療経験が多いとのこと。
だから「治し方をレクチャーしてよ」と、
そう、師匠に頼まれたので、僭越ながら思うところを師匠に申し述べてみた。
「弟子に教わる、っていうのは理想的な形だよね」と、
師匠は笑いながらおっしゃられた。
それってなかなか出来ることではない。
師匠の懐の深さを、改めて垣間見た気がした。
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後日、師匠からメールが届いた。
早速、僕がお伝えしたことを、患者さまに試してみたのだという。
「坂本君の教え、ありがたやー。」とのメッセージ付きで、
治療前・治療後の患部の写真が送られてきたのである。
そして見て驚いた。
劇的に改善されていた。
お伝えしたのは、まだまとまってもいない、ちょっとしたアイデアにすぎない。
それなのに、ここまでの結果を出されている・・・
私は舌を巻く思いだった。
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そして、またその後日。
師匠と電話をした。そこで、師匠に聞いてみた。
この前の症例、結局何を使ったんですか?と。
単刀直入に、出した方剤をたずねてみた。
「何だと思う?・・実はね・・・」と。
先生は使った処方を私に教えてくれた。
驚愕した。そうきたか、と。
私は絶対に出さない、そう思うような処方だった。
そして思い出した。
今まで何度となく感じていたこと。
「エレガント」
師匠の治し方は、いつだってそうだった。
優雅で無駄がなく、それでいて鋭い。
それが師匠の「型」。独自のスタイルだった。
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漢方の世界では、正解は一つではない。
正しさは常に複数個ある。その中で、何を選択するかはその人の経験と感覚とに委ねられている。
だから、感覚を磨くことがとても大切になる。
ただしその感覚は、多くが時代の「流行」に左右されている。
漢方にも流行がある。
日本漢方や中医学、現在日本で行われている東洋医学にはたくさんの「流行」が存在する。
そしてその流れの中で治療することは、ある意味でたやすい。
ただしそれは、多くの場合でその人の「型」ではない。
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今までの歴史上の名医には、必ず「型」があった。
尾台榕堂(おだいようどう)には尾台の、
浅田宗伯(あさだそうはく)には浅田の「型」があった。
そしてその「型」はたやすく真似できるものではない。
明確に在るものなのに、それを真似しようと思ってもなかなか思うようにはいかない。
しかし、だからこそ人は追従する。
その「型」を求めて、後世の人たちがそれを求め続けていく。
そしてその結果、「型」は残る。
「型」にまで高められたものは、廃れることなく、後世に残り続けていくのである。
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「流行」は消える。いつか必ず他の流行に取って代わる。
しかし「型」は残る。一つの正解として、衆方の規矩となり残り続けていく。
なにが淘汰されていくのか。
そして何を新生するべきなのか。
道であるならば、残り続けたい。
「型」にまで昇華する道のりは、まだまだ遠い。
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