私の場合、最も使う処方は何か?と問われれば、
明らかに「桂枝湯(けいしとう)」の加減だと思う。
ただ「桂枝湯」の加減といっても
桂枝湯は「衆方の祖(あらゆる処方のおおもと)」と言われるくらいだから、
その加減(改良したもの)となるとそれこそ沢山の処方を包括していることになる。
例えばわかりやすいものでいえば、
桂枝加芍薬湯(けいしかしゃくやくとう)、桂枝加竜骨牡蛎湯(けいしかりゅうこつぼれいとう)、小建中湯(しょうけんちゅうとう)の類。私が良く使う処方たちである。
そして桂枝湯から芍薬(しゃくやく)あたりを抜くとまた違った表情になり、
例えば苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)なんかはその典型だろう。これらの類もまた、良く使う処方だと言える。
ある時、逍遥散(しょうようさん)という処方も桂枝湯の加減だということに気付いた。
桂枝は入っていない。でも明らかに桂枝湯の流れといって良い。
要は桂枝湯をどう解釈するのかがキモだった。あれ以来、逍遥散で改善できる病が格段に増えていった。
解釈次第で運用が変わる。それが正しければ結果に現れる。
面白いものだった。さらに漢方にのめり込む自分がいた。
何かしらのコツを掴んだ気がした自分は、桂枝湯の効果を、そしてその周辺を取り巻く処方たちの効果を、一つずつ試していった。
そしたら結局、桂枝湯はバラバラになった。桂枝湯を構成する5つの生薬は、それ単独でも確かに桂枝湯として成り立つのではないかと感じたのだった。
であるならば、結局桂枝湯とは何だったのか。
多分、桂枝湯とは思想だった。張仲景(※)が観た人間の形、そのものだった。
そしたらもう、桂枝湯を使わなくても良かった。何を使ったところでそれは、結局桂枝湯を使っているのと同じなのだから。
とまぁ、ここまで述べていてなんですが、
多分、突き詰めるとこういう流れになっていくのではないかと、私は思うのです。
こんな達人のような考え方が、今の私に持てるはずが毛頭なく。
未だにどの処方を使おうかなどと、おっかなびっくり手先の運用に戸惑い、苦しんでいるのが現状であります。
ただ、確かに桂枝湯には思想が詰まっていると、昔に比べれば分かってきたような気がするのです。
そして、桂枝湯は人そのものである。これも、感じる瞬間が無いこともありません。
まだ頬にふれる髪の毛一本ほどの、かすかな感覚ですが。
説明させていただくには未熟な内容です。
しかしそれが、今の自分そのものでもある。2021年1月、自らの現状を記す。
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※張仲景(ちょうちゅうけい)・・・漢方の聖典『傷寒卒病論(しょうかんそつびょうろん)』の著者。東洋医学の歴史上、具体的な治療として始めて薬方を創立・運用した最大の偉人である。