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誰もが芸術を理解しようとする。
ならば、なぜ鳥の声を
理解しようとはしないのか。
人が、夜や花を、
そして自分を取り巻く全てのものを、
理解しようとしないで、
愛せるのはなぜだろうか。
なぜ芸術に限って、
人は理解したがるのだ。
-パブロ・ピカソ-
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漢方と芸術(アート)。
漢方の中に介在する「術」としての性質を、先の1・2・3に渡って解説してきました。
理論や理屈だけで構築することの出来ない「曖昧さ」をはらむ漢方だからこそ、
それを理解し、現実的な医療として運用していくためには芸術的な感性が求められるというお話をしてきました。
では漢方を理解するとは、いったいどういうことなのでしょうか。
漢方に備わる芸術性を理解するためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。
人は絵を見ると、それを理解したがります。
その行為がダメなわけでは決してないし、その知的活動こそが芸術の楽しさでもあります。
しかし鳥の声を心地よいと思うことは、果たして「理解」なのでしょうか。
我々が周りから自然と受けている「確かにそこにある」という感覚、それは果たして知識の上で成り立っているのでしょうか。
心から「なるほど」と思えるものは、理解ではありません。実感です。
その実感を積み重ねることこそが、漢方の本当の理解につながるのだと思います。
まず実感すること。理解や知識はその後でいい。
稜線に浮かぶ朝の山霧や、季節で変わる光の風合い。
自分を取り巻く全てのものから得られる確かな実感こそが、
漢方の本質を理解するために必要なものだと、私は思います。
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