古典を読むことについて。
漢方の初学者がまず最初にぶつかる壁は「古典の読解」だと思います。
今は昔とは違い、現代語で解説された書籍が沢山あります。
なので古典を読まなくても、ある程度の治療技術は習得可能だと思います。
さらに実際に治療を行っている方の中には、古典など読まなくても良いとお考えの方もおられるかと思います。
「張仲景というキツネに騙されるな」。
昭和の漢方家でさえ、こういって古典を嫌った先生がいるそうです。
今となっては漢方の古臭さを象徴するその最たるものが、「古典の読解」かも知れません。
いつか読もうかな。そう思っているうちに、どんどん古典から遠のいてしまっている方も多いのではないでしょうか。
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しかし私見では、古典は必ず読むべきものです。
特に『傷寒論(しょうかんろん)』や『金匱要略(きんきようりゃく)』、さらには『黄帝内経(こうていだいけい)』といった聖典は、必ず読んだ方が良い。
自分自身の経験からいってそう思います。臨床上、どうしてもそう感じざるを得ないのです。
そういうと、おそらくこう感じる方もおられるかと思います。
古典を読むことでどうして臨床が上達するのか、と。
確かに、それを聞かなければ古典を勉強する気は起きません。
具体的になぜ有意義なのか、意味が無ければ読む必要がない。そう思って当然だと思います。
しかし、そう思った時点で、
すでに古典を読んだとしても何も得ることはできません。
なぜならば古典は、そもそも意味を理解した上で読むものではないからです。
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古典は難解です。
ただ目を通しただけでは、絶対に何を言っているのかは分かりません。
そして、それは当たり前のことです。
だから今まで誰一人として、意味を理解してから読んだ人はいないのです。
古典を読むときに先ず必要なこと、
それは「盲目的」に読むことです。
意味があると、先に信じてしまうこと。
誰がなんと言おうと、意味があると信じる気持ちが先ずは必要なのです。
「信じる」とは、受動的に起こる心の発露ではありません。
誰かが信じさせてくれるものではなく、
強い情熱と素直な気持ちとをもって、能動的に発する心持ちです。
だまされるかもしれない。結局意味が分からないかもしれない。
その徒労感に打ち勝つ情熱をもって、古典を読んでみてください。
そして古典だけではありません。
師匠のこともそうです。
まずは盲目的に信じてみてください。
そして漢方の世界観もそう。
まずは自分自身が信じなければなりません。
客観的・批判的な思考は大切です。しかしそれが必要になるのは素直に信じた後の話です。
漢方は「道」です。
先の見えない、真っ暗な道。
恐怖に負けない情熱と、疑心を消し去る素直さと、盲目的にでも信じる強い心。
それが無ければ、一歩を踏み出せるはずがない。
これらを糧(かて)とする。「道」を行く人たちの共通点ではないでしょうか。
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