コロナ禍の影響で人が集まることが懸念されている現在、私の楽しみの一つである月一の師匠との勉強会が延期されてから久しく経つ。定期的に刺激を受けるということが如何に大切かを痛感する。勉強は自分でするもの、そういう考えが癖付いていはいるけれどもやはり様々な考え方から感動を得るという機会はかけがえのないものであり端的に言えば寂しい。早く再開して欲しいなと思います。
師匠は生徒が問いに対して間違えた事を言ったとしても「それは間違えだ」とは基本的に言いません、代わりに「美しくない」と言いいます。前に何故かと聞いたら直接間違えだと言われるよりもマイルドでしょという答えが返ってきました。しかし私は知っています師匠にとって「美しくない」という評価は時に「間違えである」ということよりもずっと重いということを。
美しいか・美しくないか。この尺度は漢方を学ぶ上で重要だと教えられ続けてきて実際に臨床を通して痛感します、本当に重要です。美しく処方を出せた時、病は迅速に改善へと向かう傾向がある。あーだこーだと悩んでいっぱいあれこれ工夫しようと頑張った処方ほど美しくない、つまり効かない。患者さまを観て、症状から病態そして薬方までに一本綺麗な線を引けた時が一番よく効くということはおそらく多くの臨床家が実感していることではないかと思います。
そして美しい処方とはシンプルな処方と同義ではない。つまり処方の見た目や形の話では決してない、目的への志向性の話です。どのような目的に対して如何なる考え方をもって処方という形へ具現化していくかというこの一連の流れに美しさが宿ります、そして形にその志向が宿るからこそ処方が美しくなるのです。だから師匠はデザインという言葉をよく使います。
そもそも漢方薬ですから処方なんてただの薬草です。しかしある目的のために作られたものであることは確かでだからこそ志向性が嫌でも宿ってしまう。良いデザインかどうかはその志向が決める、美しい処方かどうかもその志向が決めるわけで実際に効き目が違ってくるのですから侮れない尺度です。
何ともわけのわからない話に聞こえてしまうのは私の説明が拙いから。とても大切なことなのでいつか上手に説明できるようになりたいなと思います。
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