分かると、分からないとの差。
観えると、観えないとの差。
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ある日、急な坂道の途中で休憩していた時の話。
坂道の下から、リアカーを動かしながら登ってくる人たちがいた。
若く小柄な人が、前でリアカーを引っ張っている。
そしてやや年配のガタイの大きな人が、後ろからリアカーを押していた。
リアカーに乗っているのは家財道具。
引っ越しだろうか。年配の方が「うっし、うっし」と掛け声をかけていた。
前を通り過ぎるとき、私は二人に話しかけた。
まずは前で引っ張っていた若者に。
「後ろの人は、あなたのお父さんですか?」
「いいえ、違います。」
家族ではないらしい。しかし二人の顔は、どこかしら似ている。
そこで後ろの人が近づいた時に、こう聞いてみた。
「前の方は、あなたの息子さんですか?」
すると、答えはこうだった。
「はい、わたしの息子です。」
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出どころは忘れましたが、以前どこかで見聞きしたお話です。
面白いなと思って、覚えていました。少し細部は違ったかもしれません。
もしこの二人が嘘をついていないとしたら。あなたはこの話を理解することが出来ますか?
直感的にどちらかが嘘をついているぞと思う前に、なるほどなと、納得することが出来るでしょうか?
前の若者は、後ろの人を父ではないという。
しかし後ろの人は、前の若者を自分の息子だという。
この矛盾を消し去る着想が、あなたに観えるでしょうか。
そうですね。
一つだけ可能性がある。
後ろの人が「母親」である、という可能性です。
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先入観。
物事を正しく見るために、必要であると同時に、往々として邪魔になり得るもの。
治療においては、いつだってこのバランスが問題になる。
分かったと思いつつも、本当に分かっているのかを、常に自問し続けなければなりません。
例外はありません。あらゆる知識や情報に対して、この作業が必要です。
曖昧な概念を扱う東洋医学。だからこそ、この作業から目を背けることができません。
師匠が最初に教えてくれたこと。
それは、今までの常識にケツを向けろ、ということでした。
つまり、先入観との折り合いを模索し続けろということ。
分かると分からない、観えると観えないとの狭間にこそ、真実があるという口訣です。
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