病にはそれぞれ、治し方があります。
例えば片頭痛には片頭痛の治し方があり、
メニエール病にはメニエール病の治し方があります。
昭和時代、漢方は「病名治療」ではない、とたくさん言われてきました。
たとえ同じ病であっても、決してそれだけで処方が決まるわけではないからです。
病や症状という一本の木を見るのではなく、あくまで森を観る医学。
これが漢方の特徴です、と。そういう常識があると、今まで散々言われてきました。
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確かにそうです。確かに漢方は、病名治療によって完結できるものではありません。
しかし、各病や各症状によって治し方の違いがあり、
そしてそれぞれ、治し方の特徴やコツがあることも確かです。
歴史を紐解くと、およそ1000以上前に書かれた東洋医学の医書にでさえ、
病気や症状による分類に基づいて、その治し方が書かれています。
すなわち東洋医学だって、昔から病や症状によって治し方を変えてきたのです。
さらに昔に比べて、今では病の詳細が段違いに分かるようになってきています。
そのため西洋医学的な病名診断も、治療上非常に大切な判断材料になります。
今はもう、病名など関係ないという立場で、漢方治療を論じることはできない時代です。
森を観なければ治療が出来ないという立場は、
すでに一時代昔の考え方。もろ手を挙げて賛成することができなくなってきました。
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ただ、だからこそ言いたいのです。
本当に、森を観れているのか、ということを。
例えばめまいや耳鳴りの原因を内耳の水分代謝異常と捉え、
沢瀉湯や五苓散といった水の調節薬を基本として対応する。
森ではなく、耳という局部に起きている状態をイメージし、
そこにピンポイントで対応していくという手法。
決して悪くはないと思います。手法の一つとして間違ってはいないし、
迅速な効果を発揮することも確かにあります。
しかし、沢瀉湯は単に水を去る薬ではないし、五苓散もしかり。
水を蓄えてしまっている理由は人それぞれ異なり、その理由に的確に合わせることができた時に、これらの処方は効果を発揮するのです。
ただこれらの処方は、確かにその理由を無視して使っても効くことがあります。
特に構成生薬の少ない処方、沢瀉・白朮の2味で構成されている沢瀉湯などは、従来頓服薬として使用されていた可能性も高い、非常に融通の利く薬です。
そういう薬が漢方には多くあります。足の攣りに使う芍薬甘草湯なども、理由をそれほど考えなくても良く効く薬です。
これは、漢方のすばらしさの一つでしょう。
しかし、いかなる病や症状であろうとも、
局部だけが原因となって起こっているものなど何一つないのです。
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内耳に水が溜まっていてそれを取りたいのなら、
内耳の水を如何に取るかと同時に、内耳になぜ水が溜まっているのかを考えるべきです。
足の攣りを取りたいのなら芍薬甘草湯で取る、
それでも良いでしょう。ただ、芍薬甘草湯で取れる攣りとそうでないものとを知るべきです。
生きた体の中を視認し、病の詳細が科学的に証明されてきている時代。
そういう科学の恩恵と、相性の良い漢方処方もあります。
そしてそういう薬を切り回して治療することも、確かに漢方治療の一部です。
しかし、漢方薬は未だに科学化できていないのです。
するべきではないとは言いません。未だにできていないということが事実であるということです。
であるならば、東洋医学的な、もっと原始的な視点で、
身体を観る、からだ全体を観るということを、行う努力を怠ってはいけないと思うのです。
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森を観るとは、古人の視点に立て、ということです。
森を観るためには、現代の常識を捨てなければならないのです。
多くのことが分かり、昔のままの医療でいてはいけない現代だからこそ、
森を観る視点と、木を見る視点、
それぞれを両立させなければいけないという非常に難しい時代に、
我々は漢方を学んでいます。
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