師匠から離れて、東京から甲府へと移ったのが十数年前。
その後、先代である父が亡くなって、早六年が経ちます。
昔は、漢方の専門的な内容を語り合えるような仲間が近くにたくさんいました。
そういう仲間とも離れた今、ただ淡々と、患者さまに向き合う日々が続いています。
当時に比べて孤独といってしまえばそうかもしれません。
しかし、黙々と技を磨く時期を経ている、ということに感謝する思いがあります。
仲間や師匠から受けた教えが、確かに身になっていると実感することができるのも、
この、淡々と過ごす日々があってこそのこと。
一歩一歩、実感を持ちながら、道を踏みしめています。
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当時、師匠の間近で直接教えを受けていたころは、
とにかく出された問題に答え、その意図を理解することに必死でした。
無我夢中で、師匠が投げる綱にしがみついていた。
そうやって、師匠によって切り開かれた学問の道を、突き進んでいました。
今考えれば、その時の歩みは今よりもずっと速かった。
明らかに、数か月前の自分にはなかった知識が、今の自分にはあるという実感がありました。
そして今現在、一人で学問に向き合う時間を経てみると、
あの頃に比べて、その歩みはなんと遅いことか。
進んでは戻りの繰り返し。道を先導してくれる人がいるのといないのとでは、やはり大きな違いがあります。
しかしだからこそ、今の一歩にはあの時とは違う、確かな実感があるのです。
ゆっくり進めない道だからこそ、足元に根付く、確かな地の感触があります。
あの時私は、教え乞うていました。
今の私は、道を求めています。
教育と、求道とは、似て非なるもの。
そのことが今になって、分かるようになってきました。
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教育と求道。
両者の本質は、全くの別物です。
学び知ろうとする行為という意味では同じ。
ただし教育には自然な上下の流れがあり、求道には、それがないのです。
ある学問の道を極めんとするのであれば、その道を先導する人が必ずいて、
その人に教えを乞うことは自然なこと。
前に進む人が道を照らし、それを進むのが教育です。
坂道に上・下があるように、河水が上から下へと流れるように、
教育にも上下があります。知識は上から下へと、自然に流れていくものです。
器に水が注がれるのと同じです。知識は自然と、己に降ってきます。
その道を信じて突き進めば、それこそスポンジのように吸収できるでしょう。
しかし、学問は違う。
学問に上下はありません。
ただ真っ暗な闇があるだけ。
目に見えない無限の空間が広がっているだけなのです。
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真理を追い求めんとする学問という世界には、
上下もなく、前後もない。左右もなく、ただあるのは無限の空間です。
その中で、闇に音を響かせたり、ただよう香りをかぎ分けたりして、
あの手この手をつかって、手探りで歩いていく。それが学問です。
そもそも道など用意されていません。
だから、求道というのです。
学問の道を求めるのであれば、そこに道が用意されているというのは、
単なる勘違いでしかない。そう見える、ただそれだけのことです。
確かに先導する人がいれば、そこには引かれた一本の道があります。
そこは明るく、確かに見えやすい、歩きやすいものです。
しかし、その明るい道は、学問という無限の中の一路に過ぎません。
道は自分で見つけて、歩くしかない。
だから求道者は、誰であっても孤独なのです。
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学問の世界を知る人は、
求道が孤独であることを、深く理解しています。
だから、そういう人の教育は一種独特の感性を帯びる。
答えも結果も、すべては指し示さないのです。
教育とは自分の道を歩かせることではありません。
ただ、道の歩き方を教えることです。
名匠は規矩(きく)を教えて準縄(じゅんじょう)を教えず。
そういう姿勢でなければ、闇の中を歩く力は養われません。
だからこそ、入り口にまで案内することはしても、
そこから先は、案内してはくれないのです。
師匠の手本(規矩)を見て学ぶ。
その先の規則(準縄)は、自分でつかみ取るしかないのです。
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師匠も良く言っていました。
水飲み場まで連れて行くから、あとは自由だよ、と。
父もある時期から言っていました。
聞くな。お前がやれ、と。
自分で決めて、自分で歩む。
そうやって、自身のやり方、考え方が出来ていきます。
私もある時期をもって、師匠から離れました。
辛さを伴いましたが、あの時一人でやらせてくれた師匠に、今は感謝しています。
あの時しがみついてでも、師匠についていく選択肢はありました。
しかし、それをしていたとしても、決して今のような成長はなかったと思います。
なぜならば、孤独なくしては、自分の道は成し得ないから。
今思い出せば、師匠も父も、求道者として孤独でした。
真理を求める者だからこそ、その孤独を纏っていました。
その中で輝くことが出来たから、人が追従するのでしょう。
私はきっと、無限の闇の中で光る孤高の輝きを見てきたからこそ、
今、この孤独の意味を、理解できるのです。
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