漢方治療の心得 34 ~名医誕生の正体~

2024年03月13日

漢方坂本コラム

「混沌」としたものから、人が何かを把握しようとしたとき、

まずは合理的な思考が必要になります。

さまざまな方法がある中で、

東洋医学ではとても原始的な手法を使いました。

二元論。

物事を二つに「分類する」という手法によって、混沌に規則を生み出そうとしました。

日を陽といい、月を陰という。

火を陽といい、水を陰という。

あらゆる物・事を陰陽に帰結することで、理解しようとした試みです。

いわゆる陰陽論ですが、私が考えるに、

これは「混沌から秩序を生み出そうとする時に行われる人間の原始的思考の一つ」を指しています。

しかし、世界は複雑です。

とてもじゃないけれど、二つだけに帰結することは出来ません。

要素がもっと必要になります。

そこで陰陽とは別に、さらに5つの要素を作ります。

五行説です。

木・火・土・金・水。これらを頂点とする五芒星の図形は有名です。

そしてこれは、中国伝統医学の中で流行り、

そしてそのまま、中医学の基礎として現代でも使われています。

陰陽、そして五行。

これらは東洋思想を知るための重要な概念です。

ただし、これだけは断言できます。

こと東洋医学においては、これだけでは治療を行うことは不可能です。

いくら陰陽五行説を駆使したところで、

症状を去り、病を治すことは出来ません。

理由は簡単です。

合理性が低い。解像度が低過ぎるからです。

分類することは確かに規律を生む一つの手法ですが、

人体という複雑な対象においては、細胞を虫眼鏡で見ようとする行為と同じです。

原始的に過ぎます。医療としては到底使えない。

中医学は後に、任応秋を中心として伝統中医学から現代中医学へと生まれ変わりますが、

多面的に合理性を高めたとはいえ、それでも明らかに解像度が低すぎます。

そもそも二元論から出発している時点ですでに、

合理的とは言い難いでしょう。

合理性という点から見れば、どうしも「つたない」と言わざるを得ない。

それが歴史から見える東洋医学です。

一方、西洋医学は、合理性の塊です。

解像度の追求、人が求める合理性への執着心。

その凄まじさは驚愕に値します。

生きている人間の内部を知ることができる技術。

患部に何が起きているのかを細胞レベルで見極める技術。

西洋医学は曖昧なものを出来るだけ排除しようとした、

合理性という強力なシステムの中で形成されてきました。

私たちはその恩恵を受けて、人の寿命は劇的に伸びました。

一時代前なら治らなかった病も、合理性が加速度的に進むことで、

日進月歩、今もなお、治る技術が培われています。

西洋医学という医学のイノベーションは、

私たちの生活を大きく変えました。

しかし、

私は思うのです。

人は合理性だけで、そもそも把握できるのでしょうか。

私には、どうしてもそうは思えないのです。

臨床に当たっていると、どうしてもそう感じます。

合理性だけでは判断できない、そう考えなければ前に進めない瞬間が、

臨床においては、非常に多いのです。

物事には、「理由はない」ということがあります。

臨床では往々として、理由なんてない、ということが存在します。

もっとパッショナブルに、直感的に、

閃きで対応しなければならない事態があるのです。

全てのことが、合理的に整合性をもって、理由や原因を追究できればそれが望ましいのでしょう。

しかし、人はそもそも、合理的でしょうか。

AIのように整合性が取れているでしょうか。私にはどうしても、そうは思えません。

人のおりなす全ての行動・思考に理由があると思うこと。

そのことの方が不自然です。理由を特定すること自体が、必要だとも思えません。

ならばただ、そうだと受け入れること。

理由がないからこそ、ただ実感する。

そのことが、人を治癒へと導くアイデアになることがあるのです。

東洋医学は医学である以上、常に正しさが求められます。

正しい治療方針を組み立て、正しい処方を提供する。

治療は常に具体的であり、そうでなければ治すことはできません。

また行き当たりばったりでもダメです。それならば再現性がありません。

したがって治療の考え方にはすじが必要です。

合理的な、整合性の取れた、考え方を身に着ける必要があります。

ただし、得てして正しい治療は、合理性や整合性だけで作り上げることはできません。

理由はない、説明もできない、

しかしそうだと直感的に思える視点が、時に必要です。

それが核として、時に要素として、思考の中に組み込まれた時に、

本当に正しい治療が行えるという実感が、私にはあります。

この直感ともいえる曖昧な決定を、いかに再現性をもって成立させていくのか。

その能力こそが、漢方家の腕の良し悪しを決めている要素の一つです。

東洋医学はどこまで行っても曖昧な医学です。

二元論から五行説へ。

さらにそれを多面的にしたところで、曖昧さから逃れることは出来ません。

では、何故そうしたのでしょうか。

東洋医学ではそうする必要があったと、考えることも出来ます。

合理性の低い未熟な医学として断定してしまうことは簡単ですが、

もしかしたら合理性とは逆、つまり敢えて曖昧にすることで、人が持つ直感への余地を残したとも考えられます。

直感は実感により生まれます。

実感には必ず記憶が必要です。

そして記憶は経験を基にしている。

これが、名医誕生の正体です。

人が持つ、そもそもの力、

それが理解ではなく、実感より得られるものだとしたら。

ただ強力なシステムに依存している合理性に埋没した何か、

東洋医学はそこに、警笛を鳴らし続けているのかもしれません。



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※コラムの内容は著者の経験や多くの先生方から知り得た知識を基にしております。医学として高いエビデンスが保証されているわけではございませんので、あくまで一つの見解としてお役立てください。

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