漢方で有名な処方に「六君子湯」があります。
中国明代に作られたとされている、押しも押されぬ名方の一つです。
食欲がないとか、胃もたれしやすいとか、胃腸に不具合のある方に使われることが多く、
内科領域でしばしば処方されています。人によっては、とても良く効く優れた薬です。
脾胃気虚を補う基本処方「四君子湯」と、
湿痰という胃腸の水分代謝からくる吐き気などを止める「二陳湯」。
両者を合わせた構成を持つのが「六君子湯」。
効果と名称とが、非常に分かりやすくつながっています。
中医学理論の王道というか、基本処方だと言えるでしょう。
しかし私は、
最近この「六君子湯」をほとんど使わなくなりました。
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この薬が効かないからとか、そういう訳ではありません。
この場合だったら六君子湯が使えるなと、感じる時はあります。
でも使わなくなりました。
脾胃気虚とか湿痰とか、そういう考えからをしなくなったからです。
脾胃気虚とか湿痰、
それってホントは何なの?と。
そういう疑問が、ある時から湧いて出ました。
五臓とか気血水とか、そういう考え方って何か腑に落ちない、と感じたからです。
とても分かりやすいし、漢方医学の基礎解釈でもあります。
でも、何となく腑に落ちない。
臨床を続け、日を経るごとに、その気持ちは強くなりました。
その理由は多分、
「言葉で分からされている」と、感じたからだと思います。
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胃腸を改善するのに、六君子湯の構成は大変分かりやすく感じます。
四君子湯に入る人参や甘草、白朮や茯苓は、確かに胃腸を元気にさせそうな生薬ばかりです。
二陳湯もそう。半夏や生姜・陳皮など、吐き気や胃もたれに確かに効きそうです。
でも、何かおかしい気がする。
「この構成、分かりやすいでしょ?使いやすいでしょ?効きそうでしょ?」と、
説得させられている気がしたのです。
確かに効果的で、使いやすい。
ならば、それで良いじゃあないかと。
言われれば、その通りです。でも、使っていても何かモヤモヤします。
何故、効くのか。
それがちゃんと、分かっていなかったからです。
六君子湯が効くよと言われた。だから使った、そしたら効いた。
それで良いかも知れませんが、
それは果たして、六君子湯を使いこなしていることになるのでしょうか。
私はそこに、疑問を感じ続けました。
そこから私は、六君子湯の方意(方剤の意味)を知ろうと努めました。
そして人体にとっての胃腸とは何かを把握しようと努めました。
考え続けて徐々に徐々に、何となく分かっていきます。
人参・甘草・白朮の意味と、そこに茯苓が入る意味。
そしてなぜ半夏が必要なのか。例えばそういう一つ一つの意味を、臨床を通して確認しながら、感じるものが生まれていきます。
そうこうしているうちに、ゆっくりと六君子湯の理解が深まっていきます。
この方剤の核のようなものに、だんだんと近づいていきます。
そしてある時、気が付きます。
これ、別に六君子湯を使わなくても良いんじゃないか、と。
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概念。
漢方は、概念に支えられた医学です。
すなわち考え方が変われば、治療が変わる。
イメージで治療するという、東洋医学の宿命だと思います。
正解はたくさんあります。
六君子湯だって、効けばそれが正解です。
だから処方は何だって良いんです。処方で治すのではなく、漢方は考え方と概念とで治癒へと導いています。
正解は、考えから方で違う。
だからこそ、漢方では考え方の構築が何よりも大切です。
より簡潔な治療を、
より早く効く処方を、
より安全に適応する薬を、
そして、より的確に響く運用を。
そういう治療を漢方家一人一人が、概念を駆使して考えていく。
だから治療には、「個性」が生まれます。
私が今までお会いしてきた先生方も、非常に個性豊かな運用を行っていました。
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まだまだ及ばぬ私ですが、
最近、少しづつ感じています。
融通無碍、そのカラクリを。
少しだけ、チラ見できているような感覚です。
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