長文です。ごめんなさい。

先日、自分自身が書いてきたコラムを読み返してみたら、少し引いた。我ながらおかしなコラムだと思った。

芸術だの哲学だのの話を書き連ねていて、現在行われている医学の常識からしたら非常に危うい内容になってしまっているのではないかと気づいた。少々焦った。胡散臭さが香ってしまっているのではないか。そういえば私は髪をお団子にしているがそれも含めてかなり胡散臭い。

仰々しいことを書こうとか、奇をてらったつもりは全くない。ただ患者さまの病や不快な症状と日々正対する中、如何に漢方薬を効かせるかということを考え続けていたらこうなってしまった。方向性を間違えていたのか、天性のものが曲がっていたのか、それは分からない、ただ自然とこうなってしまった自分。多分師匠の影響が強いのだと思う、そういえば、師匠もすこぶる変わっている、いやもちろん良い意味で。この補足は強調しておきたい、なぜならば師匠もこのコラムを見ています。

ちょっとだけ説明しておきます。

ごくごく一般的に行われている医療の基本的な考え方と、漢方とのちょっとしたズレについて。

学問には2種ある。と、私は思っている。反復可能な事象を扱うものと、そうでないものとである。(※この考え方、YouTubeで東浩紀さんが言っていてとても分かりやすいです。)

例えば水は100度で沸騰する。何回やってもそうである。これは反復可能な事象であって、つまり正しい。この正しさを追求する学問が科学(サイエンス)である。現行医学、というか西洋医学はこの科学的な考え方をもとにしている。だから非常に納得しやすいし「正しさ」を強調することが出来る。論文という形態も作成しやすい。さらに「一般的にこうだ」と説明することも可能である。

しかし世の中の事象は必ずしも反復可能なものばかりではない。例えば「絵」はどうだろう。いくら精巧に真似て限りなく同じ物にしたところで絶対にオリジナルと同じものにはならない。というか世間的に同じ評価が与えられることは絶対にない。なぜならば「絵」は反復不可能だから。書き手がいくら評価の高い絵を書いても、つまりその書き方が価値として正しかったとしても、その正しさには反復性がない。むしろ「一般的ではない」・「反復不可能」という所に価値があるといっても良い。

「一般的にこうだ」と言える正しさは再現が可能である。一方、ピカソが書いた絵は再現性が無いからこそ価値として正しいものである。学問には2種あり、反復可能な事象を扱うものと、そうでないもの。前者は「科学」に代表され、後者は「芸術」に代表される。ではいったい「人」はどちらだろう。

ある「人」が経験した事実から、他者は学ぶことができる。だからそれを反復することが出来るし、時に反復しないよう気を付けることも出来る。しかし、ある「人」が経験した事実は、あくまでその人の経験であって必ずしも他者に反復できるものではない。イチローのバッティングホームをいくら真似た所でイチローになれるわけがない。反復させることが出来ない正しさもまた有るのである。

多分、「知」にはこの2つの構造があって、人はこの2つを常に内包したものである。だから反復可能な正しさからアプローチする視点だけでは理解することが難しい。「個」にだけ適応可能な正しさを追求する視点もまた必要だと思うのです。漢方の視点はどちらかと言えば後者に近い。だから「科学的」な視点よりも、「芸術的」な視点から説明した方が良いのではないか。一般化できない、其の人にしか通用しない正しさ、それを掴むために研鑽された学問が漢方であるとしたら。何となく私には辻褄が合うのです。もちろん、学問はどちらかの視点だけで見て良いものではない。だから漢方にもまた、科学的なメスが入るべきだと思います。

コラムという書きたいことを書いて良しとする広大なスペースを利用して今回私が言いたかったこと、それは結局今までのコラムの言い訳です、しかもより胡散臭さを深めただけという・・・。

でも本当にそう思うのです。伝われこの気持ち。