私の師匠は昔、会って間もない私たちに、
勉強会でこう言った。
「今までの常識を捨てろ」と。
基礎学習は教えない。
充分にやってきている君たちに、教えても意味がない。
その代わり、臨床応用を教える。
そのために、一回常識を捨てなさいと。
今想えば、
私の臨床は、あの言葉から始まったと思う。
師匠の言う通り、常識を捨ててから十余年、
その結果得たものは、私にとって大いに尊い。
あの言葉があったからこそ、今観えるものが確かにあり、
あの言葉あったからこそ、治せる人が確かにいる。
常識にケツを向けなさいという言葉は、
まるで頬をはたかれたような衝撃と伴に、
今もなお私にとって、記憶に残る名言の一つである。
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夏の盛り。7月後半。
15歳の男子が、お母さまと一緒にご来局された。
中肉中背。寡黙な表情。
男子高校生然とした、礼儀正しい子である。
中学の頃から、鼻水が止まらなくなった。
花粉症というわけではなく、通年的に出続ける。
出る時はきまって体に異常が出る。
とにかく体が熱くなり、急激に鼻水が出て止まらなくなるという。
特に急に暑い場所に行った時、
そして雨など気圧の影響を受けることも多い。
鼻水が前からザーッと流れ出すと、
そのうち鼻がつまって、ティッシュでかんでも通ることがない。
一旦はじまると一日中続くこともままあり、
夜に始まれば、一晩でティッシュ一箱は普通に使う。
顔が火照ってのぼせ、それだけでも苦しい。
おそらく血管運動性鼻炎の類なのだろう、
抗ヒスタミン薬を飲むも効かず、
小青竜湯を飲めば少しは良いが、いつまで経っても完治はしなかった。
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体格はどちらかと言えば頑強。
食欲もあり、食事はかなり食べられるほう。
鼻水が凄い時は少々だるくはなるものの、
パッと見、疲れやすいような体格には見えなかった。
本人も鼻の症状以外に、体調に問題はないという。
二便(大便・小便)正常、舌も正常の範囲内。
頭痛やめまい、動悸など、さらっと聞いた上では、身体上特に問題は見当たらない。
となると、鼻水の出方で決め手を見つけるしかない。
特有の症状で言えば、やはり「熱」だろう。
暑いところで顔がのぼせ、強力な熱感と伴に鼻水が止まらなくなる。
鼻をかんでも詰まりが取れないところを見ると、おそらく鼻腔粘膜の充血も強い。
熱証の鼻炎。そう考えて問題はなさそうである。
さて葛根湯加桔梗石膏か、防風通聖散か、
そう考える、これが常識で考えるということである。
しかしもう一度言う。私の臨床は、常識を否定することから始まった。
だから私は、熱証という考え方をしない。
熱証という考えだけでは、
おそらくこの鼻炎を止めることは難しい。
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かつて江戸時代には、
病態把握から、寒・熱を捨てた臨床家がいた。
吉益東洞や、尾台榕堂。
古方派と言われた彼らは、寒熱を論じないと、はっきり提言した。
寒熱を病態把握の重要な位置づけとする伝統中医学。
その影響を色濃く受けた、後世派からのイノベーションとして興った彼らの医学は、
当時、非常に画期的なものだった。
だから、少し聞くだけでは理解することは難しい。
しかし、彼らには彼らの尺度があり、
よくよく見ると、決して単なる後世派の否定ではない。
より合理的に、より効果的に、人を把握し治すための術。
それを明確に示した。そして古方派は一時代、医学の礎になった。
もし彼らの言葉を借りるならば、
今回の男子高校生は、寒熱で論じるべきではない。
寒や熱は人がもともと備える現象にしか過ぎず、
寒も熱も極まれば逆転する。それが人である。
古方派の名医たちが、良く言葉にする概念がある。
「急」、そして「煩」。
これらは寒熱を捨てた彼らが良く使う尺度。
古方派は、病態の「急・緩」にしばしば着目した。
時に寒熱以上に的確な病態把握を可能にし、
「急」は高まればある時から「煩」になる。
その尺度で見ようとする。
すると今回の病態は、なるほど分かりやすい。
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急迫的な病態に表れる「煩躁」。
熱を捨て、まずは病態をそう捉えてみる。
そして煩躁には発生機序があり、
石膏剤から始まり、茯苓四逆湯で終わる流れがある。
その流れの中に、今使うべき処方が隠されているとするならば、
より詳しく聞くべき要点が見えてくる。
それらのサインは、さらっと問うだけでは往々として聞き落すことが多い。
だからもう一度、身体症状の確認を行う。
なるほど、というリアクション。
すべての症状が、矛盾なく一本に繋がる感覚があった。
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最初に出した薬は10日分。
そして著効である。
毎日続いていた鼻水が、半分以下に減った。
そして開始一か月後には、鼻水がほとんど出なくなった。
ただしまだ成長期。
おそらく波は打つだろうと予測し、そうお伝えした。
そして案の定、風邪を引いたり天候が不安定な時期に症状が顔を出す。
しかし本人は根気よくこの処方を続けてくれた。
今回の治療は単に鼻水を止めるにあらず、
鼻炎を起こしやすい体質自体を変化させていく治療だった。
長く続けることには想像以上の努力を伴うものの、
それを理解し、長服してくれた本人に心から感謝したい。
そして高校三年を迎える年、鼻炎はほぼ完治を迎える。
急迫的な鼻炎は、もうほとんど起こることが無かった。
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漢方の基礎知識は、常識として大変重要である。
常識は時として強い。漢方治療では確実に言えることだと思う。
しかし、常識だけでは太刀打ちできないこともまた事実。
教えるタイミング、そして教え方、
胸に響くように伝えてくれた師匠に、私は感謝してもしきれない。
常識に背を向けても、
漢方には背かない。
それが師匠のやり方。
このバランス感覚を、常に磨き続けなければならない。
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■病名別解説:「アレルギー性鼻炎・血管運動性鼻炎」