今日のコラムは、
かなり曖昧かつ感覚的な内容ですので、
もしかしたら意味不明かもしれません。
伝わることを祈って。
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先日、当薬局に長くおかかりの患者さまが、
穏やかな表情でこう言われました。
最近、もともと好きだった植物とか、植物に集まる鳥とかを見ているのが、
楽しいんです。幸せを感じますと。
それを聞いて私は、あぁ、この方は本当に体調が良くなっているんだなと、しみじみと感じました。
症状、つまり体から不快なサインが出ていると、
人は自分の周りを見れなくなります。
自分の症状にどうしても気が向いてしまうからです。
すわなち、気持ちを外に向けて、それを楽しめるというのは、
自分の体を良い意味で手放せているということ。
体調が良くなっている証拠です。
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人が気持ちを向ける対象には、それぞれ距離があります。
例えば、近ければ自分自身。
そしてやや離れれば、自分の周り。すなわち家族や仲の良い友人です。
さらに離れると職場の人や単なる知人になるし、
またさらに離れると、地域の人や駅ですれ違う人などになりそうです。
そしてさらにさらにとどんどん離れていって、最終的には自分の影響が全く届かなくなる対象へと向かっていきます。
また気持ちを向ける対象とは単に人のことだけではなくて、
例えば自分が着ている服や自分の家、遠く離れれば向こうの山々、などの物も入っています。
さらにここでいう距離とは空間的・物理的な距離であると同時に、自分との感覚的な距離も包括しています。
さて、人の健康と、この人が気持ちを向けることのできる距離とは、
ともに深く関わっているのではないかと私は感じるのです。
人はそもそも、不安定な存在です。
自分に降りかかる様々な刺激、それによって体はどんどん影響を受け変化してしまいます。
例えば人から言われた一言、
また毎日口にする食事の内容、
さらに急激に浴びせられた冷たい風や、
照り付ける強い日差し、
体にまとわりつく湿気もそうです。
とめどなく変化する刺激に晒され続けて、人は変化し続けています。
良い方向に変化するのであれば問題ありませんが、
当然悪い方にも変化します。
病とはそういう刺激の中で発生するものだと考えれば、
これらの刺激に対して、いかに安定した体を作るかというのが健康維持のポイントになると考えることも出来ます。
さらに言えば、いかに安定した刺激を受け続けるかというのもとても大切です。
急に突然やってくる刺激ではなく、
必ずやってくる安定した刺激の方が、人は体を安定させやすくなります。
例えば朝の日の光や、日中高まる気温、
さらに夕方から深まってくる暗さや、夜間の気温の低下。
そういう安定した刺激こそが、人を安定させる刺激になり得ます。
すなわち、人は刺激に晒され変化を続けるもろい存在だからこそ、
雄大で、安定した刺激に身を任せることで、自らを安定させることが可能になります。
では、人にとっても最も安定した刺激とは何か。
おそらく地球の動きです。
自転により生まれる昼夜、またすべての物事に等しくかかる重力。
これらに身を任せることが出来れば、人は安定した刺激を得ることができます。
つまり健康とは、地球環境・自然との同調により成し得るものだと考えることができます。
東洋医学でいう陰陽とは、元をたどればおそらくそういうことです。
自らの陰陽を自然界の陰陽に同調させるという考え方。
感覚的で何を言っているのか分からない謎めいたこの考え方は、
とどのつまり、自らの小さく不安定なバランスを、より雄大で安定した存在が放つバランスに同調させなさいという教えなのです。
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人は自分を手放した時に、初めて世界に目を向けることができます。
気持ちを向ける対象、その距離は、健康であればあるほど外へ外へと広がっていきます。
そして果ては自然へと目が向き、さらに自然からの刺激を心地よく感じられるようになります。
だからこそ、植物やそこに集まる鳥たちに想いを馳せて心地よさを感じられている患者さまを見て、
健康そのものだと、私は感じたのです。
体調が悪いと、人は症状というサインを発します。
そのサインは自らの状態に、自らを気が付かせるためのものです。
故に、それが発せられていれば自分から目を離せなくなります。自分を放っておけなくなります。
そうなるともう自然どころではなくなります。自分の不安定さで意識はいっぱいになってしまいます。
しかし症状が緩和されてくると、少しずつ外に目を向けることができるようになります。
家族や友人、職場の人や知人にも目を向けることができるようになります。
ただ、自分に近しい人であればあるほど、やはり放っておくことはできません。
近しい人に心配事があれば、やはり自然を楽しむ気持ちも生まれません。
しかし幸いにも、その心配事が解決されたとします。
すると、やっと身の回りのことが放っておけるようになります。
そうやって、一つ一つ身の回りのサインが無くなるにつれて、
人は自然からの刺激を、雄大で安定しているからこそ当たり前で感じられなかったサインを、
やっと感じることができるようになります。そして、その刺激に身を任せることができるようになるのです。
そうなると、人はものすごく自由になります。
安定した巨大な器に守られているからです。
そして距離もとても遠い。自然環境の中では、たとえ裸でいても気にならないでしょう。
しかし、気を留める対象が近くに入ればいるほど、人は自由ではなくなる。
どうしても周りの人や物から発せられるサインに、身構えてしまうからです。
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自分から目を外に向けて、
周りの人や物事たちと繋がりつつも、
さらにより遠く離れた、当たり前に存在している雄大な力を、
意識をもって感じることのできる状態。
それこそが健康であり、さらにそうできる能力が生命にはあります。
非常に感覚的で、全くもって医学とは言い難く、
何を言っているのかさえ不明な、形而上学的な話に付き合わせてしまいましたが、
ただ私はこの話、
とても大切なことだと思うのです。
私の生き方としてとか、哲学としてとか、
そういうことではなく、
実際に健康を目指す具体的な治療を行う時に、
大切な着想だと感じるのです。
人には何層にも重ねられたレイヤーがあり、
その外郭は地球環境で、もしかしたらさらに外もある可能性があり、
無限に広がり、かつ逆に無限に集約する層を織りなす形こそが則ち、
東洋医学でいう所の「五行」や「六経」を理解する上で大切であると。
例えば人の細部をどんどん拡大していくと、
見える景色はまるで宇宙や銀河を思わせるものになる。
重ねられたレイヤーを通してすべてのものが繋がり、関連し合っているという考え方が、
東洋医学を理解する際に、
どうしてもしっくりくるのです。
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