・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼らは耳を貸さないよ。なぜだかわかるか?
過去への強い固定観念を持っているからだ。
いかなる変化も彼らの目には冒涜に映る。仮にそれが真実であってもだ。
彼らが求めるのは真実ではなく、しきたりなのさ。
-アイザック・アシモフ-
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東京での修行を経て、
私が実家に帰ってきたばかりの頃は、
薬剤師が1人増えたところで、急に忙しくなるわけでもなく、
空いた時間がかなりありました。
だから思う存分、漢方の勉強に集中することができた。
当時29歳、
手当たり次第に書籍を漁り、漢方の世界に思考を巡らせました。
今考えると当時は漢方のことだけをずっと考えていました。
患者さんが多いわけではなかったので、
先のことが心配ではなかったかというと嘘にはなります。
しかし焦らず、ただ目の前の漢方の世界に没頭していた。
そしてそういう時があったからこそ、
今の自分があると言えるほどに私にとって、当時はとても貴重な時間を過ごしていました。
・
そんなある時、私はふと思ったのです。
古典を読めば読むほど、今、この時代に漢方を勉強していることが実は幸運なことなのではないかと。
なぜならば単純に、昔に比べて今の方がずっと人体のことが分かっているから。
人体の細部が分かっている。生きた人間の内臓がどう活動しているのかが分かっている。
病の詳しい機序も分かっている。何故病になるのかも昔よりもずっと今の方が正確に分かっています。
西洋医学的が解き明かしてきた人体のメカニズム、
それをそのまま東洋医学に置き換えることが出来ないことは分かっています。
ただ少なくとも、東洋医学を理解する上でも大きなヒントになることは確かです。
西洋・東洋ともに、人体を知るという目的は同じなのだから。
そう考えた私は、
ある時漢方の書籍だけでなく、西洋医学によって解き明かされた人体のへの視点、
そこをもっと詳しく知りたいと思うようになりました。
特に自律神経。
教科書レベルではもちろん知っていましたが、
それよりもっと詳しく知りたいと。
今、現状ではどの程度自律神経のことが解明されているのか、
それを知るために、現代の文献や書籍を集めようとしたのです。
その時、それを見ていた父が、私にこう言いました。
何をやっているんだお前は、
お前は漢方の勉強の仕方を間違えている、と。
この意見、
その根底にあるものを、
私は今までこの世界に身を置きながら、何度も何度も体感してきました。
・
父の考えはおそらくこうです。
漢方には独自の勉強法がある、と。
それは江戸時代の名医たちから、昭和の医師たちに引き継がれ、
そして自分もそれを習い、守りながら勉強し続けてきた。
漢方の学習において、それこそが大切なこと。
次の世代へと繋ぐべき、基本であり、文化であり、しきたりであると。
古典の素読や暗記、歴代の名医による書籍を読み、膝を突き合わせて皆でそれを論じる。
たとえ一見無駄に思えるようなことであっても、
それを続けていくうちに、先人たちのような名治療家になれる。
だからこそ、それ以外の勉強方法は理解し難く、間違えていて、かつリスクさえあると。
そう、言いたかったのだと思います。
確かに、
私も始めは昔ながらの勉強方法を続けてきた人間の一人であり、
そこからの恩恵を受けた一人でもあります。
歴代の名医に憧れ、『傷寒論』ぐらい暗記できないでどうすると息巻き、
論じて曰く、余、越人の虢(かく)に入るの診、斉候の色を望むるを覧(み)る毎に云々・・・と、
序文を諳んじられるほどに、古典を素読していた時もありました。
確かに始めは意味を感じられなくても、
続けていれば徐々に文章の行間が感じられるようになってきます。
学問という意味で深まる。それは確かに私もそう思います。
しかし、それだけで良い治療家になれるのか。
残念ながら、答えはノーです。
しきたりだけで今の病の治療が出来るのであれば、どんなに楽なことか。
現実それだけでは、決して治療は上手くなりません。
・
その歴史を財産とし、
古典と呼ばれる知識の集積こそが現在の形を作り上げているあらゆる文化や技術において、
その歴史を否定することは絶対にできません。
宿命として、その歴史に通じ古典に明るいことが、現在それを生業とする者の条件ではあります。
ただし、それだけでその文化・技術の一員になれるかというと、そうではありません。
一員になるとは、その歴史を紡ぐ者の1人になるということです。
そして歴史とは常に、そういう者たちが新しい想像性を吹き込み続けてきたからこそ繋がってきたものです。
時代は変化し、人もまた変化し続けています。
その変化に対応することが出来たからこそ、繋がってきたものが歴史や伝統です。
故に、伝統を守るとは、時に今までの物を壊し、新たに開拓する行為無くしては成し遂げることができません。
過去への強い固定観念と、しきたりを守ろうとする先哲たちとの勝負。
それこそが、漢方の歴史の一員になるということ、
そして漢方治療に精通するための道のり、その第一歩目に立つということです。
・
私は今まで何度も何度も漢方という世界に定着するしきたりを目の当たりにしてきました。
そして私もそのしきたりを守りました。そうすることが正解であるという空気が、その世界には漂っていたからです。
それは決して悪いことではありません。
過去への固定観念は、歴史の大切な一部分であることも確かだからです。
固定観念とは、知らなければならないことです。
そういう世界に身を置く経験も、必ず経るべきだと私は思っています。
しかし、東京での修行時代を経て、
漢方の基礎を自分に叩き込み、
さぁこれから臨床に向かうという、その時に感じた想い。
たとえ西洋医学の視点からであったとしても、とにかく人体を知りたいと願ったこと。
それが良い事か悪い事かは置いといて、
少なくとも、今までの固定観念やしきたりとは違う視点を持とうとした。
今思えばあの時が、私が漢方の世界の入り口にやっと立てた瞬間だったのではないかと思うのです。
だから父も、しきたりから離れ、どこか知らない場所へと向かおうとしていた息子を見て、
本心としてはそれが良いか悪いかを判断できず、ただ心配になった。
そういう純粋な親心として、あのように言ったのではないでしょうか。
私はその時、父の言うことに随わず、
自分の考えを貫きました。
それを全く後悔していないし、むしろあの時止めてしまっていたらと考えると、そのことの方が恐怖を感じます。
周りからどんなに言われようとも、そうだと思える自分の素直な気持ち、
それこそが歴史を紡いでいく原動力。
たとえそれが、今まで歴史を紡いできた人々への冒涜であったとしても、
決して真実の探求は、止めるべきではないのです。
・
・
・

漢方坂本/坂本壮一郎|note