おおよそ漢方の名医は自著を残すものですが、
最終的には本草書に帰結します。本草書とは、一つ一つの生薬の解説書のことです。
江戸の名医・吉益東洞は処方解説である『類聚方』を書いたその8年後に、本草書たる『薬徴』を書き上げました。
漢方治療の到達点は、結局の所一味一味の生薬の理解にある。
東洞はおそらくそう考えていた故に、最後に『薬徴』を書いたのでしょう。
事実、確かに漢方治療においては一つの生薬の有無が、
治療全体の可否を決定することがあります。
他の医療機関で飲んでいた○○湯は全く効かなかったが、
その処方に生薬末を一種類だけ加えて服用してもらったら著効した。
そんな経験が私にもたくさんあります。
複数生薬で構成されている漢方薬ですが一味とて疎かにはできません。
そして、この一味の大切さをしばしば痛感させられる病があります。
頭痛がその一つです。
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頭痛は漢方治療をお求めになられる方の多い症状ではありますが、
基本から応用、さらにその奥まで求められる非常に奥深い病だと感じています。
例えば患者さまの様子を伺っている時に、
ああ、この方の頭痛には桂皮が効きそうだな、と感じるケースがあります。
処方というよりも、まず生薬が頭に浮かぶ。
そしてその生薬を中心に、処方を選んでいきます。
このような生薬から想定するパターンの方が的確に効くという印象があり、
さらにこの感覚はある程度漢方治療に慣れた先生ならば、経験されている所だと思います。
例えば葛根湯を使ってみて効かない頭痛であったとしても、
患者さまから桂皮の親和性を感じ取り、桂皮末で葛根湯の桂皮の分量を増やしてみる。
すると利く、ということが現実に起こります。
これは一つ一つの生薬の重要性を理解しているから出来ることであって、
葛根湯を固定したものと考えてしまうと出来ない手法です。
例えば川芎を使うことで治る頭痛があります。
だから通常であれば鼻炎や鼻づまり・副鼻腔炎に使う葛根湯加川芎辛夷を頭痛に応用することもできます。
しかし葛根湯加川芎辛夷は鼻の治療に使うものと固定して考えてしまうと、そういう「考え方」が出来ません。
細かいことですが、こういう配慮がとても大切で、
処方だけで考えていてはいけないんだ、一つ一つの生薬で効果が変わるんだという「気付き」と「実感」、
そうやって導かれた「考え方」が出来るかどうかが、治療効果に直結します。
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各治療者の漢方に対する造詣は、その治療効果を左右しますが、
造詣というのは結局の所、こういう「考え方」の違いに表れてくるものです。
だから造詣が違えば如実に治療方法が変わります。
治療効果を左右することもまた当然のことと言えるでしょう。
エキス顆粒剤という剤形が生まれたのは今からおよそ70年前。
徐々に医療の現場に根付き、今では漢方と言えばエキス顆粒剤とまで認知されるようになりました。
しかしその前までの漢方とは煎じ薬であり、散剤であり、丸剤でした。
つまり一つ一つの生薬を手に取って作る薬。
エキス顆粒剤という簡易的な薬が主流となった今、
一つ一つの生薬を手に取らずに漢方処方を扱えるようになりました。
だからこそ、以前ならば当たり前だった漢方の「考え方」が当たり前ではなくなり、むしろ消えつつある。
しかしその中には決して消えてはいけない「考え方」があると、私は臨床の現場にいて感じています。
桂皮・川芎・蒼朮・黄連、
人参・当帰・石膏・呉茱萸など。
頭痛においてポイントとなる生薬はたくさんあります。
それらがどのような場で用いられ、効き目を表すのか。
それが分かれば処方が分かり、病が分かり、人が分かる。
全てがつながっていく。だからこそ本草に帰結する。
昔、単味の生薬だけで病を治す漢方医がいたそうです。
決して常道ではありません。
しかし、漢方処方の本質的な薬能が細部に宿るのであれば、
確かに一理あります。
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■病名別解説:「頭痛・片頭痛」