昔、お腹が弱かった私は、
よく夜中に腹痛を起こしてトイレにこもったり、
緊張する場面で便意を催してトイレに駆け込んだりしていた。
それは小中学生の時の話で、
大人になるにつれて自然と治ってしまったが、
ただ、あの時の辛い感覚は今でも覚えている。
例えば授業中、みんなが近くにいる中で、
一人冷や汗をかきながら、腹痛を我慢していたあの時の辛さ。
手を上げてトイレに行かせてくれなんて、注目を浴びるようなことは絶対にできない。
ただじっと、授業が終わるまで待つしかないあの辛さ。地獄の時間。
今思い返してみると、同じような辛さが大人になってからあったかどうか、すぐには思い出せない。
それほど特殊な辛さだった。独特な緊張感と恐怖、切迫感を伴う辛さである。
だからもし、その辛さ故に学校に足が向かわなかったとしても、全く不思議ではないし、
本人にとってはメンタルが強いとか弱いとかそういうこと以前の問題として、
とにかく、腹の調子が悪いのである。
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16歳、高校生。長身の女の子。
お母さまとご来局されたのが十二月の初旬、
二学期が始まってちょうど三カ月くらい経つ頃だった。
近くの小児科にかかり、薬をもらうもなかなか良くならず、
それなら漢方でもどうだろうということでご来局された。
主訴は、腹の鳴り。
きっかけは良く分からない。
ただ二カ月前に急に咽がゴロゴロと鳴るようになり、
そして三週間前から、お腹もゴロゴロと鳴るようになった。
一番困るのは、授業中である。
鳴る気がしているのではなく、実際に鳴る。
ぎゅるるるると音を立てて鳴るので、近くの人に絶対に聞こえてしまう。
学校には行ってはいるが、とにかく恥ずかしく、
授業を受けることが恐怖だった。
そして同時に下腹部が張って苦しくなる。
ガスを出すと楽になるが、当然授業中に出すことはできない。
授業中はそれらをずっと耐え続けている。とてもじゃないが勉強どころではない。
病院で検査するも異常はなく、成長期はストレスを感じやすい時期だという説明を受けた。
ただし本人は、学校自体にストレスを感じてはいない。
むしろ好きだから、辛くても毎日通っている。
それでもとにかく、お腹の調子が悪いのである。
そこで何とかお腹が鳴らないようにできないか、というご相談だった。
病院では往々としてストレスや機能性の問題と言われるであろうこの状態、
西洋薬が効きにくいのであれば、確かに残された道として漢方治療がある。
ただし心身症と思われるようなこの手の病は、一筋縄ではいかない場合もあり、
慎重に治療方針を見極める必要がある。
詳しくお身体の様子を伺う。
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背が高く、細い体。
ただげっそりとした印象はなく、比較的体格はしっかりしている。
まず確認するべきは排便の状況。
腹が張ると同時に便通も遠い。排便はおおよそ三日に1回程度。
ただし軟便が出やすく、腹痛を伴うことはない。そして常に残便感があってすっきりと出ない。
最も気になるのは腹が鳴ることである。
所かまわず鳴るが、緊張した時は特に鳴りやすい。
ただし緊張しやすさはあるものの、精神的な乱れを自分では自覚しない。
お母さまに聞いても、普段から穏やかな性格だという。
確かに私と話していても、その言葉に不安や焦りはなく、むしろ時折自然な笑顔を見せてくれる。
月経については昔から不順であり、二カ月・三カ月来ないことがままある。
ただし月経前の体調不良や生理痛は特になく、今回の腹の鳴りも、月経前後で症状が変わることは無かった。
その他、特筆するべきことはなく一見して元気そうではある。
ただし、明らかにお腹の調子は悪い。
この状態、掴み処が無いと言えば確かにそう。
しかしなるほどなと、腑に落ちるところが私にはあった。
こうなると治療方針は明確。
ただし、あとはそれをどう成し遂げていくのか。
おそらく今回の治療では、ある生薬がポイントになるだろう。
要となる生薬から処方を選び出す、
そういう薬方選択が求められそうだった。
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人は疲れたり、ストレスを受けた時に、
メンタルが乱れるだけでなく、必ず体にも何らかの反応がくる。
しかし体のどこに、どの程度表れてくるのかが人によって異なる。
なぜならば最も弱っているポイントが、人によって異なるからである。
そしてもし、その弱っている部分を回復させることができたならば、
その時はストレスを受けてもそこに症状が表れにくくなる。
ストレスを感じない人間を作ることは出来ないし、
メンタルが乱れない人間も誰一人としていない。
しかしたとえストレスを受けたとしても、
体が安定していればその部分に症状が出てこない。
緊張やストレスによって体調が崩れる病において、
漢方で目指すところはまさにそこにある。
つまりたとえメンタルが乱れたとしても、
体には症状が出ないという状態を目指していく。
今回、不安や焦りやイライラなど、精神的な症状はそれほど顕著ではないところをみると、
おそらく体の弱さを回復させるという漢方治療の方針が合っていると、まずは判断できた。
そして体の中で最も弱っている部分はどこなのか、
それをどう回復させていくのか、その見極めこそが勝負になる。
具体的に言うならば、腹を鳴らせ、腹を張らせるこのガスの溜まりをどう解消するのか。
この詰まり方であれば、
「フタを開ける」ことで解消する。
そういう治し方が、漢方にはある。
弱り、不安定になっている胃腸であればあるほど、
とにかく優しく、丁寧に。そういう治療が求められる。
今回もそう。強い薬は一切使えない。
まずは優しく、穏やかな処方を14日分、
お出しして様子を見ることにした。
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14日後の来局時、
服用してまだ二週間しか経っていないものの、
明らかに良い変化を感じたという。
明るい表情でそうおっしゃられた患者さまを見て、私はほっと胸をなでおろした。
まず味が飲みやすい。そして、のどの調子が良くなったと言う。
お腹の症状ばかりを気にしていたが、のどが鳴ることも未だに続いていた。
それが無くなった。そして同時に気持ちも楽になった。
お腹の張りは未だに続くものの、言われてみれば若干少なくなってきたかもしれないとおっしゃっていた。
おおよそ初手は成功と言えそうである。
ゆっくり、優しく、そういう急がない治療を心がけていたが、思いのほか早く変化が起きた。
ただしそういう時ほど治療は道のりであることを意識しなければならない。
あくまで、ゆっくり、じっくり。患者さまにもそう伝えつつ、焦らずに治療していきましょうとお伝えした。
体も心も未だ「慣れ」に乏しい成長期、
刺激に対して敏感であることは当然のこと。
今回の治療は、不安定になりやすいこの時期の胃腸活動を、良い状態へと「慣れ」させること。
そう説明すると、本人もご家族もうんうんと深く頷いてくれた。
それを見て私は、これは大丈夫・良くなると、確信に近いものを感じた。
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心理社会的ストレスの影響で、
機能的ないし器質的な障害が認められる病態を「心身症」という。
過敏性腸症候群や機能性ディスペプシアなどがそれに当たり、
漢方でも治療をお求めになる方が大変多い病である。
身体症状と心理社会的ストレスの間(はざま)にある「心身相関」、
心と体とが関連するという現象の中で作り上げられるこれらの病、だからこそ、
今、漢方治療が注目されている。私はそこに深く納得することができる。
なぜならば東洋医学では、そもそも心と体との症状を、別々に考えてはいないからである。
体は心の土台。
体が楽だと心も楽になる。
それは思想や哲学である前に、
現実としてそういう現象が存在する。
その事実に着目し続けた医学が漢方であるからこそ、
今回の患者さまの「お腹の鳴り」が無くなったことも決して不思議ではない。
おおよそ半年間、服用を続けていただき、
ほぼ症状が消失した時点で、漢方治療を終了とした。
今後もストレスを感じることは当然あると思う。
しかしこれからはもう、お腹には影響しにくくなっているはずである。
だから安心して学生生活を送って欲しい。
そして大好きな学校に、不安と恐怖とを感じることなく通って欲しいと思う。
大人の私から見て、本当に思う。
学生さんたちは、とても大変な状況に置かれていると。
年単位で変わる友人や先生との関係、
部活や習い事、テストや受験勉強、
夜遅くまで塾にいて、家に帰れないこともある。
大人よりもずっと、ストレスに晒され続けている。
そういう中だかこそ、ストレスやメンタルの問題と言われれば確かにそうだろう。
でも本来ならば、そういうストレスがあってもなお、元気でいられる体でいて欲しい。
漢方とはそういう「体」を作る治療であるからこそ、
成長期のお子さまにこそ、漢方治療をお勧めしたいと私は考えている。
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【漢方坂本/坂本壮一郎|note】
今回の症例の【解説編】をnoteに記載しました。
使用した処方、また病態の見立てや処方にたどり着くまでの考え方を解説しております。
ご興味のある方はご参考までにお読みください。

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■病名別解説:「過敏性腸症候群」

漢方坂本/坂本壮一郎|note