東洋医学では、人や病態をさまざまなタイプで分ける。
虚実、寒熱、表裏、陰陽。
これらの尺度は治療上決して無視することの出来ない、非常に大切な要素である。
こういう尺度を設けることで、何よりも病態把握が分かりやすくなる。
したがって、これらは基本中の基本。
漢方を学ぶ者ならば、まず最初に把握するべき尺度でもある。
ただし、分かりやすいものが、必ずしも正しいものであるとは限らない。
そして正しいものでなければ、臨床では一切意味をなさない。
東洋医学の概念が、正しいものとして身に着くまでには時間がかかるからこそ、
正しさとはいったい何なのかということを、
我々は患者さまを通して、知っていくしかない。
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31才、女性。
夏の盛り。うだるような暑さの中、
産後の体調不良に悩まれる女性がご来局された。
出産したのは二年前。その後から、体調が芳しくない。
右耳だけ難聴になったり、扁桃炎が起こりやすくなったり、
そして何よりも、月経前に乱れる心身の不調が如何ともし難かった。
月経前になると唇がガサガサと乾燥し、肌荒れ・吹き出物がひどくなる。
また胸が強く張り、強烈なイライラが起こる。
自分ではコントロールできないほどの怒り方をしてしまうため、
些細なことで家族と喧嘩になり、そのことで落ち込み、心が疲れてしまう。
お子さまを育てていくためにも、このままではいけないと思うが、
感情の起伏をどうすることもできず、今の自分に自信が持てなくなってしまった。
もともとCAの仕事に就き、出産後もこの仕事を続けている。
ただし山梨には空港がなく、県外まで通う日々も相当に大変だった。
そのためか最近、朝起きても全く疲れが取れず、
特に仕事をがんばった後は、家に帰ると何もできなくなってしまう。
産後に焦って仕事する必要はないよと、家族は優しい言葉をかけてはくれる。
でもだからこそ、自分を責めたくなる。
疲れ、イライラすることでまた落ち込むということを、ここ最近はずっと繰り返していた。
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昨今、女性が働くのは当たり前という時代になった。
当薬局でも、誇れる仕事をずっと続けていきたいという女性が多く来局されている。
その中にあって、月経や出産に伴う体調不良は、それを妨げる足枷の最たるものである。
やりがいのある仕事を続けたいという気持ちがある以上は、
確かに、産後なんだから休むというだけでは、何の解決にもならないように思う。
年齢的にも若く、かつ志をもって就かれた職業。
であるならば、産後とはいえもっと自分が求めている生活を、得られるはずである。
そのためには体調を回復させ、PMSをどうにか安定させなければならない。
苦しまれている状況を深く理解した上で、私は詳しく体調を伺った。
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身体細く、一見して華奢な女性。
二便(大便・お小水)正常。ただし考え事があると、腹痛下痢をおこす傾向がある。
またストレスで胃が痛みやすく、胃が弱いという自覚もある。
睡眠は取れているが、夜間に手足がほてりやすいのだという。
月経前は食欲が増える。またやや便秘の傾向も出る。
しかし月経が来ると軟便になり、時に下痢。生理痛は気にならないが、代わりに頭痛が起こる。
舌を確認し、その他月経の状態を確認する。
一通り聞き終わると、私には一見、典型的な例に思えた。
PMSに常用される名方・加味逍遙散。
総じて考えれば、この処方を想起することが定石だと思う。
加味逍遙散は、体力中等度から虚弱な方に使う処方。
さらに比較的胃腸が弱く、イライラなどの興奮性の強いPMSに使う代表方剤である。
胃腸の不安定さや月経前のイライラを主訴とすることからも、この薬がピタリと合う、そんな印象がある。
しかし、私はどうしても加味逍遙散を使う気にはなれなかった。
私は加味逍遙散を捨て、より「体力の充実した人」に用いる薬を、あえて出すことを考えた。
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私が選ぼうとしている処方は、肉付きが良く体格に優れた方で、エネルギーが充実した「実証タイプ」に使うとされている処方である。
漢方では「虚実」の弁別は基本中の基本。体格や腹、脈や舌などからその方の充実度を明らかにし、それを「虚実」と見立てて処方を選用する。
この患者さまは決して充実した体力を感じさせる体格ではなく、かつ疲労も強く備わっている。
見た目もその症状も、いわゆる実証とは程遠い方。しかしそうであったとしても、私はより実証の方に使う処方を出さなければ、治らないという確信があった。
表情のある部分、その力の入り具合。
そこから硬く、力の入った「緊張」が見て取れた。
それこそが加味逍遙散では手強いと思う根拠。身体に内在するこの硬さは、柔らかい薬では砕けない。
硬きには硬きを以てする。それ相応の力でなければ、決して砕くことができない。
私は7日分の薬を出した。
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一週間後のリアクションは上々だった。
まず「飲める」ということ。味に問題なく、胃に負担を感じることもなかった。
そしてまず変化が訪れたのは便通。毎日、すっきり出るようになった。
夜間のほてりはまだあるものの、最近深く眠れるようになったのだと、おっしゃられていた。
薬方選択の正しさを感じた私は、同処方を継続する。
そして月経が来た。イライラをそれほど感じること無く、突然月経が来たという感じだった。
そして出血量にも変化があった。一日目からすっきり出ない感じが無くなり、かつすっきり終わるようになった。
まだ服用後1回目の月経ではあるものの、PMSが改善へと向かっていることに、とても喜ばれていた。
その後、同処方をそのまま継続し、月経を何度か経過してもらった。
イライラの波はゼロではないが、前に比べたら、ほとんど気にならないほどになった。
体調が良いということで、そのまま服用を続けられ、
そして5か月が経った頃、お顔にあった「硬さ」はすっかり消えていた。
穏やかな表情の患者さまを見て、一旦飲まないで様子を見ましょうかと促すと、
笑いながら、そうですねと頷かれた。
患者さまも私も、自信をもって治療を終了した。
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東洋医学で行われる様々な分類手法。
「虚実」はその柱の一つ。筋肉などの体格を基本として、その方が発する体力の有無は、治療上見定めるべき重要な要素である。
ただし、処方は決して固定したものではない。体に虚実があったとしても、薬が同じように虚実に縛られているとは限らない。
もっと有機的で複合的なものが処方。
通説はそれとして理解しながらも、時に背を向け、本質を見抜こうとする姿勢の先に、漢方薬の本当の使い方が見えてくる。
歴史の中で作られてきた通説。
時を通じて存在する説には、大切なものも、たくさんある。
しかし臨床に携わると、それでは治せない現実がたびたび見えてくる。
広大な漢方の歴史、その中から本質を見抜くのでれば、
いわゆる漢方の常識は無数にある。私を縛っている通説は、きっとまだ多い。
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■病名別解説:「月経前緊張症(PMS)」
■病名別解説:「妊娠中・産後の不調」
〇その他の参考症例:参考症例