漢方とアート 10 ~デザインの危機~

2024年04月23日

漢方坂本コラム

使うということを前提に置く「道具」は、

どのようなものであれ、

その形に必ず創作者の意図が組み込まれます。

それをデザインと呼ぶならば、

デザインこそが道具の良し悪しを決める。

歴史的にみても、今まで多くのデザインが研究されてきました。

19世紀以降、イギリスで起こった産業革命。

粗悪な大量生産品が流通し、職人による手仕事の美しさが失われました。

そこに異を唱えたのがウィリアム・モリス。

モダンデザインの父と呼ばれています。

手仕事に備わる装飾的な美しさを復興させるため、

興した運動は「アーツアンドクラフツ運動」と呼ばれました。

それが装飾的曲線のデザイン、アール・ヌーヴォーへと昇華し、

欧米の至る所で見られるようになります。

その美しさは「分かりやすい美しさ」。

デザインに一つの解答を示します。

一方、産業革命以降の工業製品たち。

時代とともになじみ深いものになる中で、ここにもデザインの再考が求められるようになります。

有名なのが、ドイツ・ワイマールで誕生したバウハウス。

モダニズムと称されるデザイン様式と伴に、多くの優秀なデザイナーを生み出しました。

バウハウスでは美しさと技術との融合を図りました。

より合理的な考え方が、デザインに組み込まれていきます。

その流れを受けて誕生したアール・デコ。

フランス・パリで流行したこのデザイン様式は、まさに装飾性と合理性とを兼ね備えたものでした。

かつてのアール・ヌーヴォーが、一部の特権階級のためのデザインである一方で、

世界大戦中であったこの時代では、機能的でシンプルなものが求められました。

つまりデザインは一部の人から、大衆へと次第に広がっていき、

そこからデザインは、様々な潮流を生み出していきます。

大戦での困窮を背景に起こったロシア・アヴァンギャルド(ロシア構成主義)、

バウハウスの影響を受けて発展したアメリカの機械化・合理主義(アメリカ・インダストリアル)。

過去の流れとその時代背景を受けて、デザインは刻々と変化していきます。

合理性と機能美がモダニズムとなり、

モダンからの脱却としてポストモダンが生まれる。

過去・現在を受けて、未来へと繋がっていく。

歴史あるものは必ず意味をもって、過去と未来とを繋いでいます。

漢方薬は「道具」です。

人体に影響を与え、治癒へと導くための道具です。

道具である以上は、必ずデザインされています。

創作者の意図が、その構成に必ず介入しています。

そして東洋医学にも、時代とともに移り変わるデザインの流れがあります。

上述した歴史と同じように、その時々の時代背景を受けてデザインは変化してきました。

東洋医学において、最初に作られたデザインは、完全に合理主義的なもの。

無駄なものを一切省いた、極めてシンプルな形としてこの世に生まれました。

中国・漢代。未だ物資が豊かではなく、かつ薬が希少であった時代。

その中で合理的・機能的な美しさを持つ薬を作り上げたのが、『傷寒論』の著者、聖医・張仲景です。

しかし極めてシンプルなものに対して、人は必ず装飾という欲求をもたずにはいられません。

あれも付け足そう。これも付け足そう。

そうやって時代を経るごとに、様々にデコレートされた処方が作られていきました。

おそらくその装飾性を最も開花させたのが、中国宗代から金元代。

劉完素・ 張子和・李東垣・朱丹渓という四人の天才が現れ、

喧々諤々の理論闘争を繰り広げます。

きらびやかで豪華、または印象派絵画のような無数の淡い光。

装飾性を極めたあたらしいデザイン。

このデザインは中国から輸入という形で、我が国日本にも強い影響を与えます。

江戸時代初頭、田代三喜や曲直瀬道三。

のちに「後世派」と呼ばれる彼らは、デコレーションされた医学を展開していきます。

曲直瀬道三が書いた『衆方規矩』には、さまざまな加減方が記載されていますが、

これは彼らの使った薬が、装飾的デザインを基盤としていることを裏付けています。

しかし、装飾は時に煩雑さを招きます。

的確に装飾を行うことは、単に装飾欲求を満たすだけの「付け足し」では実現できません。

そこでカウンターカルチャーが生まれる。

漢代合理主義への回顧。

吉益東洞や尾台榕堂です。

いわゆる「古法派」と呼ばれた彼らは、合理的かつシンプルな処方運用によって現実的・機能的な医学を実践しました。

デザインの流れで言えば、モダニズムの発生に近いと思います。

近代化・工業化というわけではありませんが、装飾性の否定と機能性への渇望は、まさにモダニズムのそれです。

すぐれた機能・効能を持つ鋭い薬が多用され、

それとともに古方派は多くの弟子を抱える巨大派閥へと成長していきます。

ただし両極端な文化には必ずその折衷案が生まれる。

見殺しにするは後世学の弊。生きるべきものを殺すは古方学の弊。

こんな言葉があるように、鋭過ぎる医学も柔らか過ぎる医学も、どちらも良い面と悪い面とを持ち合わせます。

両者の良い所を取り、補い合おうという着想。「折衷派」が誕生します。

中でも単なる良い所取りではなく、古方・後世を深く極めた上で折衷を選択した和田東郭や浅田宗伯など。

後の世に名を遺す名医が江戸後期に活躍します。

この江戸時代の流れは、

欧米において発生したデザイン様式の推移と同じです。

似たような推移が、すでに日本・江戸時代に起きていた。

欧米のそれは、漢方医学の変革と大変近いものを感じます。

江戸に興り、成熟し続けた文化。

そして時代は、明治・大正・昭和へと向かいます。

しかしここから、漢方は粉々に破壊される。

漢方断絶の時代、昭和へと突入します。

医師国家免許の取得において、西洋医学の習得のみが条件となって以降、

漢方の文化は一時極端に衰退しました。

医業として漢方は完全に廃れ、

漢方を行うこと自体が、変人と呼ばれる時代がありました。

今でこそ漢方と聞けば、一般の方でも何のことかは分かります。

しかしこの時代、漢方と言われても何のことか分からないという時代でした。

積み上げた文化が潰え、消えた時代。

しかし、そうならなかったのは、

大正・昭和と、この医学を脈々と継承し続けた人達がいたからです。

昭和の大家と呼ばれる天才たち。

森道伯・湯本求心・龍野一雄・中島随象・大塚敬節・細野史郎・山本巌などなど。

多くの書籍を残し、平成・令和の私たちに道を示しました。

昭和は漢方の衰退と、復興の時代でした。

その恩恵を受けて我々は今、医業としての漢方を行うことができています。

現在漢方を行う者たちの師であり、誰しもが伝説の漢方家です。

彼らがもし日本にいなければ、漢方はとっくに消滅していたでしょう。

しかし、

デザインとしてはどうでしょうか。

江戸から令和、よりマクロな視点で見た時に、

漢方のデザインは、新たな段階へと到達できたでしょうか。

正直に言えば、答えは「否」です。

復興は果たせたものの、新たな段階には全く進んでいません。

今行われている東洋医学は、その文化も手法も思想も、

江戸末期に比べれば数段劣っていると言わざるを得ません。

昭和の天才たち。彼らはある意味、不遇な時代を生きました。

衰退から復興へ。そうしなければならなかった時代。

もし彼らが復興などではなく、本質的な漢方を極め得る時代に生まれていたとしたら。

きっと漢方のデザインは新たな潮流を多く生み出し、

歴史的に見ても江戸に劣らない、燦然と輝く時代になっていたでしょう。

そしてきっと、それは彼らも分かっていたのではないでしょうか。

自らが不遇な時代を生き、漢方を生き残らせなければいけないという使命を持ち、

それは則ち、裏を返せば本質を深める作業ではなく、

表層を広める活動を行わざるを得なかったということを。

であるならば、

私たちはどうか。

いったい何をするべきなのでしょうか。

昭和の師たちの思想を受け継いだ私たちが、

今するべきことは、彼らが広めた表層を守ることでしょうか。

違うはずです。

彼らが残してくれた文化を、今一度、歴史の潮流に吹き上げる。

大それたことかも知れません。

しかし、今現在ある漢方は、

決して本来の形に戻ったわけではないのです。

広く使われるようになった漢方薬。

道具として認知度が広がり、誰しもが手に取れるようになりました。

しかしそのデザインは意味も分からずに使われ、

単なる大量生産品として成り下がってしまいました。

敢えて悲観的に言えば、今はそういう状況です。

そしてあながち、誇張だとも言えません。

昭和の大家たちがなんとかして繋いだ漢方の火。

結果残ってしまった大量生産品としての漢方を、

今、私たちはデザインとして復興する段階にきています。

モダンからポストモダンへ。

そしてその先のデザインが今、作られ始めている。

漢方以外の文化では、そういう流れが脈々と続いている。

漢方以外の文化では・・・・・・・・・

このままで良いのでしょうか。

アーツアンドクラフツ運動やバウハウス。

私たちは、過去に起こった文化の流れを知ることができます。

つまり規範はあります。

私たちが行うべきことは、ただただ、明確なはずです。



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