八味地黄丸(はちみじおうがん)・下編
■八味地黄丸と「腎気」
名方・八味地黄丸。
上編では八味地黄丸が歴史的にどのように解釈されてきたのか、そして中編では本方運用の実際、すなわち実際に効果のあるものと、そうでないものとをご紹介してきました。
ここまでの解説である程度、八味地黄丸の実像を感じてもらえたと思います。
しかしここで疑問が残ります。
八味地黄丸が適応する「腎気」とは何か、ということです。
この問題に対しては、永い漢方の歴史においても未だに解答は出ていません。
各々の漢方家が自身の臨床を通して体感し、明らかにしていかなければならない命題なのです。
今回は八味地黄丸の解説の最後として、未だ考察の段階ではありますが、私自身の見解を一つの案としてご紹介したいと思います。
漢方家がいかに蒙昧から不昧へと理解を進めていくのか。そういう漢方家が行う東洋医学へと取り組みと挑戦とを、一つの例として感じていただければ幸いです。
・
八味地黄丸は何らかの形で「腎」に関わりのある薬と考えることが自然です。
出典の『金匱要略』において「腎気丸」と称されていることからも、それは明らかです。
ただし、ここでいうところの「腎気」とは何なのか。単に寿命や生殖能力、また骨を主る「腎」を補うという考え方だけでは、臨床上さまざまな不具合が生じてしまいます。
八味地黄丸が関与する「腎」を論じるのであれば、現実的に八味地黄丸が効果を及ぼし得る病態から、その考えを広げていくべきです。
すなわち、うっ血性心不全に伴う浮腫や息切れ、さらには糖尿病や排尿障害といった、実際に効果を発揮し得る病にある「共通点」をまずは考えなければなりません。
そして、それを具に観察するとき、私にはある考えが浮かびます。
八味地黄丸は、人体の「水」、つまり人体が保有している水分に関わりのある薬ではないかということです。
・
うっ血性心不全は、進行すると下肢に浮腫みを生じてきます。
また糖尿病は、急激に進行すると人体の水が多尿によって失われ、強い口渇を生じてくるようになります。
どちらにしても、水が下に向かって急激に落ちてくるのです。
重力に逆らい、全身をめぐるはずの水が下になだれ落ちてくる、そういう下方への水の崩落や堆積を、八味地黄丸が適応する病態では見てとることができます。
そして滞留して淀む水は、ものを錆びさせます。鉄をずっと水の中に付け込んでおくと、だんだんと鉄が腐食され朽ちていきます。
そういう自然現象から、古人は人体も同じだと着想したのではないでしょうか。
すなわち、腰から下に水が溜まると、水が淀み、新鮮さを失うと考えた。
さらに下半身が長く水に漬け込まれていると、その排出を行うためのあらゆる組織が錆びて劣化し、その排出口の機能が失われると考えた。
自然現象から人体を把握しようとした古人は、そういう現象が人体に起こっていると想起したのではないかと感じるのです。
・
であるならば、八味地黄丸は「下方の淀む水を排出させると同時に清水を生み、組織の錆び取りを行う薬」と考えることができます。
抽象的ではありますが、そう考えると私には、八味地黄丸の薬能が非常に納得しやすくなるのです。
いらない水を排出して下半身を軽くさせる。
そして正しい潤いを導くのと同時に、錆びのように組織を劣化させる何らかの機序を食い止め、正常な活動を呼び戻す。
そうすれば、排出口の機能が賦活され、水の清濁をしっかりと分別できるようになります。
そうやって人体の水分代謝を改善しながら、心臓などの循環器やそれにかかわる腎臓、また膀胱や尿道、そして仙骨神経叢などの働きを間接的に助ける。
もしこれが八味地黄丸が回復する「腎気」の実像なのだとすれば、本方がなぜ腰痛や排尿障害・浮腫や息苦しさ・糖尿病による脱水や口渇などに効果を発揮するのかが見えてくるのです。
・
八味地黄丸の薬能を理解するためには、「寿命」や「骨」ではなく、あくまで「水」に着目するべきです。
八味地黄丸が改善する「腎気」とはおそらく「水に及ぼす力」。『黄帝内経素問・上古天真論篇』にはこうあります。「腎は水を主る」と。
八味地黄丸はその深淵な意図とともに、未だに未知なる効果を秘めた名方です。
それを紐解く鍵は「水」という着想。人体の約60%を占める「水」にこそ、処方運用の鍵を見出すべきだと、私は考えています。
・
・
・
〇参考コラム:○漢方治療の実際 ~腎虚?八味地黄丸?臨床的に正しい理論とは~
※上編→【漢方処方解説】八味地黄丸(はちみじおうがん)・上編
※中編→【漢方処方解説】八味地黄丸(はちみじおうがん)・中編