六君子湯(りっくんしとう)・前編
<目次>
六君子湯の特徴
■浅田宗伯による六君子湯の解説
■六君子湯の来歴
■伝統中医学の流れと六君子湯の特徴
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胃腸に効く薬、六君子湯。
この薬、本来あまり小難しいことを言う必要はありません。
いわゆる胃腸の弱い人に無作為に使っても効くことの多い名方です。疲れるといつも胃が弱り、食欲がなくなり、食べても胃がもたれやすいという人であればとにかく飲んでみることをお勧めします。
ただ今回の解説では一つだけ、ある名医の解説を紹介します。
江戸後期から明治にかけて活躍した巨匠・浅田宗伯。
彼の著書『勿誤薬室方函口訣』では六君子湯を大変分かりやすく説明しています。
ただし今回、様々な六君子湯の解説の中でこれを選んだ理由は、分かりやすいからではありません。
浅田宗伯の口訣には、彼なりの六君子湯に対する「指摘」が隠されています。
それまでの六君子湯への解釈、そこに一石を投じている。
その文脈を理解すると、六君子湯という処方を今一歩深く知ることができます。
漢方処方の理解を、古典に触れることでより深めていく、
それを示す具体例として、今回は六君子湯とその口訣に込められた宗伯の想いを解説していきます。
六君子湯の特徴
■浅田宗伯による六君子湯の解説
『勿誤薬室方函口訣』
【六君子湯】
此方は理中湯の変方にして中気を扶け胃を開くの効あり。
故に老人脾胃虚弱にして痰あり、飲食を思はず、或は大病後脾胃虚し、食味なき者に用ふ。
陳皮半夏は胸中胃口の停飲を推し開くこと一層力ありて、四君子湯に比すれば最も活用あり。
『千金方』半夏湯の類数方あれども、此方の平穏にしかず。
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江戸時代は日本医学史において、百家争鳴の大発展を遂げた円熟期です。
その中で浅田宗伯は一つの終結地点とも言えます。紆余曲折を経てたどり着いた江戸医学の結論の一つです。
その宗伯が示唆する通り、六君子湯はとにかく胃腸の弱い人の胃薬として、特に食欲不振(飲食を思わず)を目標として出す薬です。
漢方には様々な補気剤があります。補中益気湯もそうだし十全大補湯もそう。その中でも六君子湯は、特に食欲不振の回復に重きを置く薬です。宗伯の口訣は、そういう臨床の現実を明確に示しています。
さらに「脾胃虚弱」や「陳皮半夏」・「四君子湯」などは六君子湯を語る上で外せない重要単語でもあります。
なぜこれらが重要単語になるのか、それを知るために、少々時代をさかのぼり六君子湯の出自を見ていきましょう。
■六君子湯の来歴
六君子湯が世に初めて登場した書物、いわゆる出典は明の虞搏が著した『医学正伝』とされていますが、はじめて六君子湯という名で紹介されたのは元代の医学者・危亦林によって書かれた『世医得効方』です。
ただしどちらにしても六君子湯の原型はすでにもっと前の時代、宋に存在しています。宋代『太平恵民和剤局方』に記載されたいる「四君子湯」と「二陳湯」です。六君子湯はこの四君子と二陳湯とを合わせた処方で、故に六君子湯といいます。
中国歴史上、宗は国としての文化が飛躍的に発展した時代です。その時代に中国医学も大いに成長し、さらに金元時代に成熟、その結果「李朱医学」に帰結します。六君子湯を提示した虞搏は、この李朱医学の影響を強く受けた人物の一人でした。
六君子湯はこのような伝統中医学の正当な道の中で生き残り使われてきた薬です。そしてこの「正当な道の中で使われてきた」ということが、六君子湯を知るための大きなポイントになります。
ではその道のりとは一体どのようなものなのでしょうか。東洋医学の発症から李朱医学までの道のりをごく簡単に説明していきます。
■伝統中医学の流れと六君子湯の特徴
まず東洋医学の発症は漢代にまでさかのぼります。
聖典『傷寒論』。この書物の誕生こそが東洋医学が臨床医学として生まれた瞬間です。
この書物では基本的に病理、つまり体で何が起こっているのかを述べていません。極力説明を省き、実際の症状に処方を適応させる形で治療法が提示されています。
したがってこの実践的な治療をいかに学問、つまり解説可能・説明可能な形へと昇華させていくのか、これが後の時代までずっと続く伝統中医学のテーマになりました。
そして時代を経てついにそれが為されます。宋代に気・血・陰・陽などの概念や肝心脾肺腎といった五臓の概念の考察が深まり、さらに金元時代に四人の天才が現れます。
その理論闘争による成熟を経た結果として二人の天才の名を取り、「李朱医学」という学問が生まれたのです。
病の根本は体内にある(これを火と呼んだ)という発想を提示したこの医学は、後に田代三喜によって室町戦国時代に本国へと伝わり、日本の医学に大きな影響を与えることになります。
そしてその医学は日本において、後の江戸時代に「後世派」と呼ばれるようになります。誰しもに説明しやすく、かつ使いやすいという医学。ある程度体系化されていたという点で広がりやすかった側面もあり、江戸時代に古方派が誕生するまでは、当時の日本医学の主流でした。
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さて、この変化の流れは、医学をある程度説明可能なものにさせていくという流れです。
則ちそこまで医学に精通していなくても、ある程度使いやすく、かつ効きやすいという処方が世に出回り、重宝されました。
宋代の『和剤局方』にその原型を発し、さらに李朱医学の影響を受けてなお世に提示された六君子湯は、この影響を強く受けた処方です。
即ち使いどころが分かりやすく(説明しやすく)、かつ安全で効きやすいというのがこの薬の特徴であり、それはそのまま伝統中医学発展の方向性そのものでもあります。
胃腸の弱り、つまり脾胃気虚を治療する代表方剤である四君子湯と、胃に溜まる痰飲を除き吐き気を止める二陳湯、それを合わせて胃腸薬としての完成度を高めたものが六君子湯。この解説しやすく分かりやすい六君子湯は、田代三喜によって李朱医学と伴に日本に伝えられた故に、我が国でも中国伝統医学の影響を色濃く残す薬として使用されるようになりました。
田代三喜の弟子、安土桃山時代の医師・曲直瀬道三はその名著『衆方規矩』においてこう記しています。
「四君子湯は一切補気の本薬であり、痰あらば陳皮半夏を加えて六君子湯と名づく」と。
とにかく気が不足しているならば本方を考えろということ。そして胃にちゃぽちゃぽと水が溜まるような傾向があれば六君子湯だということ。
気や痰といった文言の使用や、分かりやすい説明が後世方らしい、「説明可能な医学」として発展してきた伝統中医学の流れを汲めばこその解説です。
そしてこの分かりやすい説明と使いやすさは、そのまま現在にまで続いています。
神戸中医学研究所編著『中医臨床のための方剤学』から引用してみましょう。
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〇六君子湯
〔効能〕補気健脾・和胃降逆・理気化痰
〔主治〕脾胃気虚・痰湿
元気がない・疲れやすい・四肢の無力感・食欲不振・消化が悪い・少食あるいは食べれられない・悪心・嘔吐・腹満・慢性の咳嗽や喘鳴・多痰・泥状~水様便・舌質が淡胖で嫰・舌苔が白膩・脈が細で無力など
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脾胃(胃腸)の気を補い、痰湿(未消化物)を去ることで、胃腸の活動を促す薬。
だから四君子湯と二陳湯とを合わせる。
そう考えれば説明しやすく、かつ聞いている方も分かりやすく、使いやすい。
それが誰からも愛される名方・六君子湯の最大の利点です。
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さて、通常であれば六君子湯の解説はここまでで終了です。
しかし、今回の解説ではこれを言いたかったわけではありません。
実は江戸時代の後期、このような解説に疑問を投げかけた漢方医がいたのです。
それが先で述べた通り、浅田宗伯です。
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後編へ続く・・・
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■病名別解説:「慢性胃炎・萎縮性胃炎」
■病名別解説:「膵炎(急性膵炎・慢性膵炎)」
■病名別解説:「便秘」
■病名別解説:「喘息・気管支喘息・小児喘息」
■病名別解説:「自律神経失調症」
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